本番までの空き時間、
会場の奥まった通路はひどく静かだった。
表のフロアではスタッフの声や機材を動かす音が絶えずしているのに、少し裏へ回るだけで、別の建物みたいに空気が変わる。
あなたはそういう人気の少ない場所を選んで、
壁際にもたれかかるように立った。
ポケットからスマートフォンを取り出す。
画面には、少し前に止まったままのウォニョンとのやり取りが残っていた。
その二行だけが、あの日からずっと静かに残っている。
移動と療養とリハで、
ちゃんと連絡する余裕がなかった。
余裕がなかった、という言い方は半分本当で、
半分は言い訳だったのかもしれない。
ウォニョンに何をどう伝えればいいのか、
うまく言葉にできないまま時間だけが過ぎた。
今日こそはと思って、あなたはほとんど勢いで電話をかけた。
かけてから、少しだけ後悔した。
時差もある。
向こうにも向こうのスケジュールがある。
こんなタイミングで、しかも何の前置きもなく電話して、出られるはずがない。
そう思いながらコール音を聞いていた。
切ろうか迷った四回目のあと、五回目でようやく通話が繋がる。
少しだけ息を切らした声だった。
急いで取ったのがわかるような、掠れた呼吸の混じる声。
あなたはその声を聞いた瞬間、
胸の奥にあった小さな棘が少しだけ抜けるのを感じた。
自分の声も、まだ本調子ではなかった。
熱の名残と長い移動の疲れで少し掠れている。
その掠れを隠さないまま、あなたは笑った。
ウォニョンは一拍遅れて、小さく息を呑んだ。
その聞き方に、心配がそのまま詰まっていた。
責める気配はまったくない。
ただ、本当に安否だけを確かめたい声。
あなたは壁に肩を預けたまま目を伏せる。
あなたはできるだけ軽く言った。
心配を大きくしたくなくて、自然にそういう口調になる。
でもウォニョンは簡単にはごまかされない。
それでも念押しするように返すと、
電話の向こうでウォニョンが少し黙る。
その沈黙のあと、素直な声で言った。
あなたは目を閉じた。
そういうことを、ウォニョンはためらわずに言う。
言ってしまってから少し照れるくせに、でも誤魔化さない。
そのまっすぐさに救われてきたことを、
あなたはちゃんと知っている。
ウォニョンも少し笑った気配がした。
通話越しの笑い声は、近くにいる時より少しだけ幼く聞こえる。
あなたは小さく息を吐いた。
やっぱり見ていたか、と思う。
あの数秒は、いまや何度も切り取られて流れている。
膝に手をついて、すぐ誤魔化したあの一瞬。
見られたくなかった姿ほど、なぜかよく広がる。
あなたはあえて、そうだけ言った。
ジミンの看病とか、自分の中で絡まったあれこれとか、そういうものは省いた。
省いたままでも、嘘ではない。
けれど完全な本音でもない。
そういう曖昧さが、自分の中にあることをあなたは自覚していた。
ウォニョンはそこで、何か言いかけた。
音になりかけた一文字が、途中で止まる。
ジミン、と言いかけたのだとあなたにはわかった。
たぶん本人も、それに気づいて飲み込んだのだろう。
今日はあなたが復帰する日で、今ここで別の名前を出すのは違う、と考え直した気配があった。
そして次に続いたのは、別の言葉だった。
その言い方がやさしくて、
あなたはかえって胸が苦しくなった。
短く返す。
それ以上、何を足しても足りない気がした。
通話はそのあと少しだけ続いた。
今いる場所のこと、時差のこと、リハは軽めだったこと。
どれも表面だけの話で、でもそれでも、声を交わせたことに意味があった。
やがてスタッフを呼ぶ遠い声が聞こえて、
あなたはそろそろ戻らなければならなくなった。
最後にそう言われて、
あなたはほんの少しだけ何も言えなくなった。
通話を切ったあとも、スマートフォンの黒い画面に自分の顔が薄く映っている。
さっき、ウォニョンが何か言おうとしてやめたことを、あなたはちゃんと察していた。
察していて、触れなかった。
触れたら困るとわかっていたから。
SNSに流れているのは、
自分の体調不良の動画だけじゃない。
ジミンが、あなたのパンダのぬいぐるみに頬を寄せ、キスするみたいな角度を取ったあの動画も、もちろん見た。
見てしまった。
何度も流れてくるから嫌でも目に入るし、
目に入るたび、胸の奥に静かな熱が灯る。
正直、嬉しいと思ってしまっていた。
それがいちばん厄介だった。
嬉しい、と思った自分を否定しきれない。
ジミンが逃げるのをやめたように見えることも、自分の輪郭をあんなふうにステージに残してくれたことも、胸のどこか深い場所にやわらかく落ちてくる。
でもそれをジミンに話題として出すには、
あまりにも恥ずかしかった。
何を言えばいいのかわからない。
見たよ、なんて言えば、その先にあるものまで全部露わになってしまいそうで怖い。
そのうえ、ウォニョンには付き合っているのに申し訳ない。
気持ちは急がねばならないものではない。
今すぐ答えを出せと言われているわけでもない。
なのに、決めなくていいはずのことがずっと胸の中で引っかかって、呼吸のたびに少しだけ痛む。















編集部コメント
主人公は鈍感で口下手ではあるものの『コミュ障』というほどではないので、キャラの作り込みに関しては一考の余地があるものの、楽曲テーマ、オーディオドラマ前提、登場人物の数などの制約が多いコンテストにおいて、条件内できちんと可愛らしくまとまっているお話でした!<br />転校生、幼馴染、親友といった王道ポジションのキャラたちがストーリーの中でそれぞれの役割を果たし、ハッピーな読後感に仕上がっています。