第5話

光を射る弦音
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2026/03/03 11:56 更新
あなた side
あなた
……
ゆっくりと瞼を持ち上げると、
早朝の名残を含んだ冷たい空気が、
肌にまとわりついた。

寝ぼけたまま瞬きを二、三度繰り返し、
窓の外へと視線を向ける

いつのまにか、窓を叩いていた雨音は消えていた。

だが空はまだ灰色の雲が覆っていた。

濡れたアスファルトが鈍く光り、
雨上がりの特有の土と草の匂いが、
わずかに風に混じって流れ込んでくる。


僕は背中を反らし、凝り固まった体を伸ばしながら、
「ふあ」と間の抜けた欠伸をこぼす。

まだ完全に覚めきらない頭の奥に、
凛とした声が届いた。
仙波水澄
自分の弓を取ってから降りろよー
白陵の専属コーチの仙波せんば水澄みすみコーチが
座席の前方からこちらを見下げ、軽く顎で促している。


弓道の所作から癖の一つまで、
細かいところを見逃さずに教えてくれる、
几帳面で面倒見のいい人だ。

ジャージ越しでもわかるほど体つきはがっしりしていて、
無駄のない筋肉がついている。

身長も180は優に超えているだろう。

対して僕の身長は、いまだ160にすら届かない156センチ。

見上げると首が痛くなるので、
いつもは視線を胸元あたりで止めている。

失礼だとは思うが、毎回目を合わせていたら、
僕の首はそのうちが折れてしまいかねない。

それをわかっているのか、
仙波コーチも何も言わず、
いつも穏やかに笑って許してくれている。

ただ一つだけ、許せないことがある。

面白がって毎回のように「お前はちっちゃいな〜」
といじってくるのだけは許せなかった。

その反抗心で毎日牛乳を欠かさず飲んでいるものの、
伸びる気配は一向に感じられない。
仙波水澄
浅羽もちゃんと弓持っていけよー
仙波コーチの間延びした声が、車内に響く。

僕はまだぼんやりと窓の外を眺めたまま、
動こうとしなかった。

雨上がりの景色が流れるように視界に入り、
思考だけが取り残されている。

そんな僕に気づいたのか、
仙波コーチは軽く注意するような口調で声を投げかけてくる。

視線だけそちらに向けると、先生はクイッと顎や親指で示し、
「早く行け」とでも言いたい目線を向けてきた。

言葉はなくても、十分過ぎるほど伝わってくる。


この人は、わりとノリがいい。

堅物そうに見えて、実際は生徒との距離が近いタイプだ。

呼び名も「仙波コーチ」など堅苦しくなく
「すみさん」や「すみちゃん」と呼ばれている

だから自然と、生徒からも好かれる。

そんな仙波コーチ……すみさんに逆らう理由もないので、
僕は素直に体を後ろへ向ける。

後方の座席に重ねて置いてあった自分の弓を引き寄せ、
矢が収まった矢筒を手に取った。

ずしりと、腕に重さがかかる。

また前の席へと戻り、肩にバッグを掛け直す。

弓と矢筒を抱えたままでは少し窮屈で、
肩に食い込む感触が地味に痛い。

持ち辛いが、仕方ない。


僕はバスを降り、濡れた地面で足を滑らせないよう、
慎重に一歩ずつ足を運ぶ。

靴裏がアスファルトに吸い付くような感触を確かめながら、
呼吸を整える。

そして一度立ち止まり、
弓を持ち替える。

矢筒の位置を直し、
弓の向きを整え、
いつもの持ち方に落ち着かせる。

丁寧に。

いつも通りに。
すると少し後方を歩いていたすみさんが僕に向かって
仙波水澄
それと浅羽
今日は高等部に混ざって弓を引くからなー
念入りにストレッチしとけよ
あなた
……わかりました
「ちなみに落だ」と言いながら
横を通り過ぎていくすみさんは
楽しそうに笑っていた。

僕はその一言にため息をつきたくなった。
白陵学院高等部弓道部
『よろしくお願いします!』
雲がかり、決して晴天とはいかない空の下、
スカウト旅がいつのまにか合同練習へと様変わりしていた、今日この頃。

もしかして、騙されたのか……?と気づいた時にはすでに遅かった。

僕たちは弓道の強豪校として知られる桐崎の弓道場へと足を踏み入れていた。
挨拶や入念なストレッチを終え、
いよいよ弓を引く時間になったその時________

ふと上空に影が差し込む。

何かと思い、顔を少し上へ向けると、
高等部の先輩たちが輪のように並んでいた。

僕もその輪に混ざるように一歩足を踏み出した。
梅澤和義
よし
揃ったな
梅澤先生の低い声が当たりを包み込む。

その声に、僕は自然と背筋を伸ばす。
梅澤和義
あなた
急に名前を呼ばれ、ピクリと体が反応するも、
すぐに梅澤先生へと向き直る。
梅澤和義
実力を示せ
示せないならすぐに下がらせる
重苦しい空気の中紡がれたその言葉は重圧そのものだった。

その言葉に、僕は決意と覚悟を示すように、力強く頷いた。
あなた
はい
ゆっくりと息を吸い、吐く。

胸の奥に溜まった雑念が、呼吸とともに静かに解けていく。


意識を、ただ正面の的だけに集中させる。

カーン__________


澄み切った弦音が、静寂を切り裂くように
射場の隅々まで響き渡る。

乾いた音の余韻が、柱や床に反響して、
ゆっくりと消えていく。

その瞬間、射場に差し込む一筋の光が、
僕の足元を淡く照らした。

視線が集まるのを肌で感じる。

しかし、背中に突き刺さるような視線の重みも、
不思議と今は気にならない。


スパン____________


僕はその視線を受け止めたまま、静かに残心へと入る。

目を閉じれば、先ほどの一射が、体の内側で鮮明に呼び起こされる。


足踏み_____

胴造り_____

弓構え_____

打ち起こし_____

引き分け_____

会_____

離れ_____

残心_____


一つひとつ、射法八節を刻み込む。

この一射で自分を示すために。

最後に、的に意識を預けるように、ゆっくりと深呼吸をする。
試合の結果は、白陵二十射十九中、桐崎は二十射一六中で白陵が勝利を収めた。

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