第12話

戸惑いとウォッカギブソン
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2024/03/26 13:00
健太郎に断られた週末を超えたすぐの頃、一向に暖かくならない気温に苛立ちながら、ホットコーヒーを片手に街を歩く。
もう三月も半ばを過ぎたのに一向に暖かくならない。

『寒いのは苦手なんだけどな…』


昼下がり、太陽は高い位置から私を照らすのに、気温も気分も上がらない。
おまけに…心まで雲行きが怪しい。
『爪伸びたなぁ…。
終わってから、朝子さんのとこ行くか。』

「あれ、あなたさん?」

『ん、ミーコちゃん?』


制服姿のミーコちゃんは、年相応の学生さんって感じで眩しく見えた。
にこにことして、偶然ですね!と言っていたミーコちゃんは急に何かを思い出したように、はっと顔色を変えて、今度は真剣な顔になった。


「あなたさん…。」

『うん?』

「あの…お話が…!!!!」

『話?』
ミーコちゃんを連れてカフェに入った先で、この間の休みにみんなで水族館に行ったことを聞かされた。


「ダブルデートって、
健太郎さんと朝子さんが言い出して…」

『へー……うん?』

「で、水槽の前で…健太郎さんと朝子さんが…」

『え…???』


ばちんと目が合ったミーコちゃんはその瞳の奥で本当のことです…!と語りかけてくる。


「キス…してたんです。」

『……、うそ。』

「ほんとです!」
そりゃあ、あんなに素敵な方と一緒に過ごしていたら、気持ちが向いたってなにもおかしくない。
分かっていたはずだ、健太郎が自分となんて遊んでいるかもしれない、なんてことも。


それでも、あの日感じた熱を、あの日のキスも、
全部をウソだと思ったら…


心が痛くて張り裂けそうだ。
それほどまでに、気が付いたら、あのバーテンダーを愛していたらしい。
『そっか…ありがとね。
わざわざ教えてくれて。』

「いえ…」

『ところで、そのデートで
ミーコちゃんはどうなったの?』

「…松永さんに、告白されました!」

『よかったじゃない!』


嬉しそうにはにかんだ彼女はすっかり恋する乙女の顔で可愛らしい。
話によると、想いがあることにはあるけど、あくまで自分はミーコちゃんの彼氏ではなく保護者だという。



「でも、いいんです。
そばにいられたら幸せなので。」

『そっか、じゃあ、おめでとうだね。』

「ありがとうございます!」
こんな風に純粋に、誰かを想っていられる、それが少しだけ羨ましかった。
ただ、そんな話を聞いてしまった以上、今日ネイルに行くのはあきらめよう…。

伸びてきた爪を見ながら、あの日からもうそんなに時間がたつんだと認識してしまう。
ふとあの日の夜を思い出して、彼を意識してしまう。

もしかしたらそれも全部ウソかもしれないなんて…。

きゅっと胸が締め付けられるように苦しくなった。
『おっと、仕事に戻らないと。』

「え、もうそんな時間ですか?」

『ちょっとね、次の取引先と約束があって。
ごめんね、ゆっくりできなくて。』

「いえ!お仕事、頑張ってください!」

『ありがとう、頑張るね。』



失恋の痛みに苦しんでいられないのが、社会人のつらいところだと思う。
失恋休暇なんてものがあったら…、なんていう子がいた気がしたけど、それには反対。
だって失恋したことがばれるなんて、逆に恥ずかしいと思う方だし。

それだったらその分バリバリに仕事して、忙しさで痛みを忘れてしまう方がずっといい。

『…っし!!』


気合を入れなおして前を向いた。
彼の面影を消すように。
『やりすぎた…。』


いつもなら、健太郎がそろそろでしょ?とか、今日も待ってるよ、とか連絡をくれるはずなのに、今日に限ってそれがない。

『やっぱり、朝子さん?』

心にむくむくと黒い雲がかかって、いつの間にか雨が降り始める。
辛いけれど泣いていられない。

新規開拓の案件を終わらせてから、席を立ったころはもう21時…オフィスには誰もいない。
ため息を一つついて、パソコンを消してからオフィスのセキュリティをかけてビルを出た。
『えー…!?クローズ!?』


美味しいお酒が飲めそうだと思っていたのに、健太郎のバーはお休みで。
そんなこと言ってたっけ?と手元の携帯を見ても連絡は来ていない。
何かあったか…、連絡をしようとしても、頭の中に朝子さんが浮かんで指が止まった。



結局別のところで、ウォッカギブソンを頼む。
軽いあてと一緒につまみながら飲んで、空っぽな心を満たすように。

名前も覚えてないバーテンダーに見送られてお店を出たころに、ずっと音沙汰なかった携帯が震えた。

〈今から行く。〉

たったそれだけ、ずっと待ちわびていたはずなのに、いざ彼の連絡が来るとこんなにも胸が苦しい。

どうして?なんて聞けない、関係が崩れるのが怖い。
なにしてたの?なんて言えるわけがない、
彼は自由な人だから。

それでいいと願ったのは…、私だから。
急いでマンションへ帰ると、エントランスで彼にはちあわせた。


『健太郎…!?』

「あなたちゃん…。」

『とりあえず、入ろ?』

見つけた瞬間抱きしめてきた彼を、引きずってエントランスからエレベーターに乗り込む。
部屋に入った直後に、後ろ手に鍵を閉めた彼からかみつくようなキスが降ってきた。

言いたいことも沢山ある、聞きたいことだってたくさんある…、
でもそれを全部口に出したら、彼といられなくなるかもしれない…



その事実が、どこまでも私を臆病にさせた。
ベッドの上に私を座らせて、彼は私を抱きしめた。
顔は見えないけれど、泣いている気がした。


『どうしたの?』

「……、純くんが、シェアハウス出ていくって。」

『松永さんが?』


耳を疑うような言葉だった。
いつまでも、いつまでもあそこにいるだろうと、勝手に思ったくらいには、あの場所が似合う人だから。
それとこの行為になんの関係があるのか、なんて野暮なことを聞く余裕がないくらいに、熱烈に求められて心が苦しくなる。


ねぇ、誰を想ってるの?
手が届かない誰かを重ねてるの?


目は口ほどに物を言う…なんて言うけど、言い得て妙だとつくづく思う。
今日の健太郎の瞳の奥にいるのは、本当に私?

分からなくて、ぎゅっと目を瞑ると、目の縁に溜まっていたらしい涙がこぼれた。



「………、ごめん。あなたちゃん」

『それは、何に対する謝罪?』

「…………」


やっと動けるようになって、お風呂を沸かしに行って帰ってくると、彼の第一声はそれだった。
何も答えない健太郎に手を伸ばすと、大人しく頭を撫でられている。


『朝子さんと付き合うから、
私には会えないっていう謝罪?』

「は?????」

『え????』

「なんでそうなったの!?」

『だって、ミーコちゃんが!
水族館で朝子さんとキスしてたって!!』

「誤解だよ!してない!
正しくは、止められた!!」


『しようとはしたんだ?』


「…………、まぁね。」


そこから、私は知ることになる。
彼の、朝子さんに対する思いを。
そして、松永さんへの思いを。
ウォッカギブソン
カクテル言葉:隠せない気持ち

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