蝶屋敷の奥、静寂に包まれた一室で、しのぶはお館様と対峙していた。
いつもなら心を落ち着かせるはずの藤の花の香りが、今日に限っては焦燥感を煽る。
しのぶは、古記録の写しを畳の上に広げた。
耀哉は、開いた瞳をゆっくりと閉じ、しのぶの言葉を静かに受け止めた。
その顔には驚きも否定もなく、ただ深い海のような静謐さがあった。
しのぶは耳を疑った。産屋敷家は代々、鬼殺隊の全てを把握し、慈しんできたはずだ。
特例中の特例である「上弦の零」の出自を知らないなど、あり得るのだろうか。
しのぶの声が、わずかに震える。
耀哉の声には、苦渋の色が混じっていた。
しのぶは拳を固く握りしめた。
お館様の慈愛は理解している。
けれど、論理と警戒を司る「柱」としての自分が、その曖昧さを許せない。
しのぶは、毒気を抜かれたように溜息をついた。
お館様の言葉は、いつも鋭い。自分の心の奥底にある、
寿々への「正体不明の憐憫」を正確に突いてくるからだ。
一方、地下室の寿々は、何かが崩れる予感に震えながら、自分の爪を見つめていた。
自分が「何者」であるか。それを知る者がいなくなった世界で、
彼女はただ、誰にも言えない過去という名の毒を飲み込み続けていた。













編集部コメント
依頼人の悩みや不安に向き合うカウンセラーという立場の主人公が見せる慈愛にも似た優しい共感と、その裏にひそむほの暗い闇。いわゆる正義ではないものの、譲れない己の信念のために動く彼の姿は一本筋が通っていて、抗いがたい魅力がありました!