第39話

38.不透明な起源
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2026/02/24 12:59 更新
蝶屋敷の奥、静寂に包まれた一室で、しのぶはお館様と対峙していた。
いつもなら心を落ち着かせるはずの藤の花の香りが、今日に限っては焦燥感を煽る。
胡蝶 しのぶ
胡蝶 しのぶ
お館様……失礼を承知で申し上げます。寿々さんの剣技、あれは異常です
しのぶは、古記録の写しを畳の上に広げた。
胡蝶 しのぶ
胡蝶 しのぶ
記録にある戦国時代の剣士、そして今や上弦の壱となっている存在……
彼らの振るう『月の呼吸』のことわりが、彼女の動きには色濃く混じっています。
五百年前という彼女の言葉が真実なら、彼女は鬼殺隊にとって最悪の敵から、
その牙を授かったことになります。
耀哉は、開いた瞳をゆっくりと閉じ、しのぶの言葉を静かに受け止めた。
その顔には驚きも否定もなく、ただ深い海のような静謐さがあった。
産屋敷耀哉
産屋敷耀哉
……しのぶ。君の懸念はもっともだ。
……だが、実はね、私も彼女の過去については、詳しくは知らないんだよ
胡蝶 しのぶ
胡蝶 しのぶ
……え?
しのぶは耳を疑った。産屋敷家は代々、鬼殺隊の全てを把握し、慈しんできたはずだ。
特例中の特例である「上弦の零」の出自を知らないなど、あり得るのだろうか。
産屋敷耀哉
産屋敷耀哉
彼女がどうやって鬼殺隊に現れたのか、どのようにお守り役となったのか……
その経緯を記した資料は、ある時期を境に、産屋敷の歴史から完全に抹消されている。
私の父も、その前の父も、『寿々はそこにいるものだ』として彼女を受け継いできた。
胡蝶 しのぶ
胡蝶 しのぶ
そんな……。では、彼女が本当に味方であるという保証はどこにあるのですか⁉
しのぶの声が、わずかに震える。
産屋敷耀哉
産屋敷耀哉
保証はない。……分かっているのは、彼女が『上弦の零』という序列を無惨から与えられ、
かつては彼の配下として最強の敵であったという、血塗られた事実だけだ。
耀哉の声には、苦渋の色が混じっていた。
産屋敷耀哉
産屋敷耀哉
彼女の血管には、無惨の血が最も濃く流れている。
彼の一言で、彼女がいつ牙を剥くか、私にも断言はできない。
……けれどね、しのぶ。彼女の瞳を見てごらん。
あの『零』という数字は、無惨にとっては『始まりの成功作』という意味かもしれないが、
私には、彼女が全てを失って『無』になった証のように見えるんだ。
胡蝶 しのぶ
胡蝶 しのぶ
…………
産屋敷耀哉
産屋敷耀哉
彼女は、名前も、過去も、愛した人も、全てをあの男に奪われた。
その果てに残ったのが、あの悲しい剣技なのだとしたら……。
私は、彼女を信じたい。歴史が彼女を消したのではなく、
彼女自身が、過去を消さなければ生きてこられなかったのではないかな。
しのぶは拳を固く握りしめた。
お館様の慈愛は理解している。
けれど、論理と警戒を司る「柱」としての自分が、その曖昧さを許せない。
胡蝶 しのぶ
胡蝶 しのぶ
……もし。もし彼女が裏切れば、その時は私が彼女を殺します。
たとえ、その剣に私の首が飛ばされようとも。
産屋敷耀哉
産屋敷耀哉
……ああ。その時は、頼むよ。
……けれど今は、彼女におにぎりを持っていってあげてくれないかい?
彼女は、君に嫌われていることを、何よりも悲しんでいるからね。
しのぶは、毒気を抜かれたように溜息をついた。
お館様の言葉は、いつも鋭い。自分の心の奥底にある、
寿々への「正体不明の憐憫」を正確に突いてくるからだ。

一方、地下室の寿々は、何かが崩れる予感に震えながら、自分の爪を見つめていた。
自分が「何者」であるか。それを知る者がいなくなった世界で、
彼女はただ、誰にも言えない過去という名の毒を飲み込み続けていた。

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