第2話

再会
8
2025/06/09 22:44 更新
あれから10年──
東の戦地では、風が血の匂いを運んでいた。

「……また、あの“死神”か」

戦場にその名が響けば、兵たちは息を呑み、剣を落とす。

マルサリス・ヴァレン。
誰よりも命を軽んじず、誰よりも命を賭ける者。

彼は孤独の中で、今日もただ、戦い続ける。

……レナは、どうしているだろうか。

 そんな想いを、彼は誰にも見せなかった。
 燃え盛る砦を背に、倒れた味方を背負いながら、ただ前を向いていた。

 その彼のもとへ、一通の封書が届いたのは、戦の終結からほどないある日だった。

「……召喚状、か」

 手紙の封には、王都の印。
 王自らの名が記されていた。

 ──“王都へ戻れ。功を称え、賞を授ける”

 ただの栄誉ではない。
 これは、王の意志だ。

「……まさか、今になって」

 誰にともなくつぶやきながら、彼はゆっくりと剣を鞘に収めた。

 遠くを見据える瞳の奥に、かすかに灯る光。

 ──また、あの場所へ帰る。
 ──あの日、何も言えずに別れた少女がいる場所へ。

 重たい旅装を背負い、マルサリスは静かに歩き出した。
 その背には、失われた仲間の想いと、心に残るひとつの約束があった。

 かつての少年は、今、王都へ戻る。
 幾千の死を越えてなお、彼が守りたかった“ひとつ”を、その手に確かめるために。



──王都の一角、王宮近くの裏門周辺──
 
日もすっかり落ち、人通りがほとんどなくなった石畳の路地に、冷えた風が吹いていた。

王都に戻されたその夜、マルサリスに与えられた任務は「この区域の警備」だった。
 理由は伝えられない。ただ命じられ、従うだけ。
 だがどこか──引っかかっていた。


その静寂を切り裂くように、靴音が響く。

その先に、ひとりの女性の姿があった。
マルサリスは声を発した。

「……こちら、立ち入り禁止区域です。お戻りを」
低く、張りのある声。
 通りかかった少女へ、警告するように放たれたその言葉は、彼の背を預ける剣と同じく、無駄がなく鋭かった。

 少女はフードを被っていた。
 が、その仕草はどこか慣れない。歩き慣れていないように、慎重すぎるほどの足取りだった。

「……あの、すみません……」

 声もまた、小さく、けれど不自然に澄んでいた。
 マルサリスは目を細め、ほんの少しだけその場を動いた。

 ――そのときだった。

 風に煽られ、少女のフードがはらりと落ちた。
 露わになった金の髪。白い肌。息を呑むほど整った顔立ち。

 ……忘れるはずがない。

 彼女の顔が月に照らされた瞬間、マルサリスの胸に何かが弾けた。

 けれど、同時に本能がそれを否定した。

 まさか。
 ここに、いるはずがない。
 だって彼女は――

王女レナ。

 あの夜、自分のせいで傷つけてしまった少女。
 あれから一度も会うことなく、ただ遠くにいるはずの存在。

 それでも、目の前に立つその姿は、記憶の中と寸分違わなかった。
 けれど、少しだけ変わっていた。

 背は少し伸び、眼差しに幼さの影は残りながらも、どこか強さを帯びている。

「……マル、サリス……?」

 その声が、名を呼んだ。

 ――たしかに、彼女だった。

 その声に、全身が強張る。
 胸の奥で凍っていた記憶が、一気に溶けて広がる。

 ゆっくりと、マルサリスは少女に向き直った。

「……レナ、様……?」

 たしかめるように口にした名前は、夜気に溶けて消えた。

 レナもまた、目を見開いていた。

動けない。いや、動きたくなかった。
心のどこかで予感していたはずなのに――その姿を見た瞬間、言葉が消えた。

 二人の間に、沈黙が落ちる。

その静寂は、まるで永遠のように長く――
けれど、どちらかが声を発さねば、ふたりはまたすれ違う。

レナが、そっと口を開いた。

「……ほんとうに、マル……なの?」
視察って言い訳して抜けてきて、ただ城下を歩いてただけなのに……まさか、あなたに会えるなんて……」

その声は、震えていた。
けれど、懸命に隠そうとしていた。
王女としての誇りが、そうさせているのだと、マルサリスには分かった。

彼は一歩、近づく。
しかし、それ以上は踏み込めない。

再会の喜びより先に、過去の罪が脳裏をよぎる。
守れなかったこと。
言葉すら残せなかったこと。
何もかもを置き去りにした自分。

レナは小さく笑った。泣き笑いのように。

「……ずるいよ、マル。ひとりで、全部抱えて。何も言わずに、行って……」

その言葉に、マルサリスは目を伏せた。

「……言える資格が、あると思えなかった」

胸の奥に張りつめていたものが、静かにほどけていく。
もう、自分を責め続けるのはやめよう――そんな気がした。

沈黙は、もはや重荷ではなかった。
そこにあったのは、確かに「再会」だった。

「……レナ、君が……ほんとうに……」

 レナは微笑もうとしたが、その瞳の奥には涙が揺れていた。

「夢みたい……ほんとに、マルなんだね」

声が震える。
 その一言に、マルサリスは言葉を失った。
 何度この瞬間を夢見ただろうか――けれど、夢に見るたび、それはいつも遠ざかるだけだった。

守ったつもりだった。
 でも結局、引き裂かれた。
 言葉も、残せなかった。

 ずっと、悔やんできた。
 名誉も剣も、その償いだった。

「……ごめん。遅くなった」

 たったそれだけの言葉に、レナは堪えきれず、涙をこぼす。

「ううん……ありがとう。生きててくれて……帰ってきてくれて……」

「……話したいこと、たくさんあるよ」

「……俺もです。けど、ここでは……目がある」

 マルサリスは辺りを警戒するように目を走らせ、ゆっくりとレナの前に立った。

「この先の小道に、巡回兵の見回りが来る。……戻ってください。今は、まだ」

 レナは名残惜しそうに彼を見つめる。言葉にしなくても、離れたくない気持ちは痛いほど伝わってきた。

 だから、マルサリスはわずかに声を落としながら、そっと言った。

「……明日の夜、あの丘に行きます。君が昔、“秘密にしよう”って言った、あの場所に」

 レナの目が、わずかに見開かれる。

「……覚えてたの?」

「あの木も、その約束も、忘れるわけがない」

 二人のあいだに、静かな時間が流れた。
 言葉はなくても、それだけで気持ちは伝わっていた。

レナは一歩だけ、マルサリスに背を向ける。
 けれどすぐに立ち止まり、振り返らずに言った。

「……また、会える……?」

 そのかすかな声に、マルサリスは小さくうなずいた。

「……ああ」

 それだけで、レナは歩き出した。
 風が、ふたりの間をすり抜けていった。

 再びフードを被り、歩き出すレナの背を、マルサリスはしばらく見つめていた。
 何年も越えてようやく巡り合った再会。
 それは、まだ始まりにすぎない。

 ──また話そう。あの丘で。ふたりの場所で。

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