あれから10年──
東の戦地では、風が血の匂いを運んでいた。
「……また、あの“死神”か」
戦場にその名が響けば、兵たちは息を呑み、剣を落とす。
マルサリス・ヴァレン。
誰よりも命を軽んじず、誰よりも命を賭ける者。
彼は孤独の中で、今日もただ、戦い続ける。
……レナは、どうしているだろうか。
そんな想いを、彼は誰にも見せなかった。
燃え盛る砦を背に、倒れた味方を背負いながら、ただ前を向いていた。
その彼のもとへ、一通の封書が届いたのは、戦の終結からほどないある日だった。
「……召喚状、か」
手紙の封には、王都の印。
王自らの名が記されていた。
──“王都へ戻れ。功を称え、賞を授ける”
ただの栄誉ではない。
これは、王の意志だ。
「……まさか、今になって」
誰にともなくつぶやきながら、彼はゆっくりと剣を鞘に収めた。
遠くを見据える瞳の奥に、かすかに灯る光。
──また、あの場所へ帰る。
──あの日、何も言えずに別れた少女がいる場所へ。
重たい旅装を背負い、マルサリスは静かに歩き出した。
その背には、失われた仲間の想いと、心に残るひとつの約束があった。
かつての少年は、今、王都へ戻る。
幾千の死を越えてなお、彼が守りたかった“ひとつ”を、その手に確かめるために。
──王都の一角、王宮近くの裏門周辺──
日もすっかり落ち、人通りがほとんどなくなった石畳の路地に、冷えた風が吹いていた。
王都に戻されたその夜、マルサリスに与えられた任務は「この区域の警備」だった。
理由は伝えられない。ただ命じられ、従うだけ。
だがどこか──引っかかっていた。
その静寂を切り裂くように、靴音が響く。
その先に、ひとりの女性の姿があった。
マルサリスは声を発した。
「……こちら、立ち入り禁止区域です。お戻りを」
低く、張りのある声。
通りかかった少女へ、警告するように放たれたその言葉は、彼の背を預ける剣と同じく、無駄がなく鋭かった。
少女はフードを被っていた。
が、その仕草はどこか慣れない。歩き慣れていないように、慎重すぎるほどの足取りだった。
「……あの、すみません……」
声もまた、小さく、けれど不自然に澄んでいた。
マルサリスは目を細め、ほんの少しだけその場を動いた。
――そのときだった。
風に煽られ、少女のフードがはらりと落ちた。
露わになった金の髪。白い肌。息を呑むほど整った顔立ち。
……忘れるはずがない。
彼女の顔が月に照らされた瞬間、マルサリスの胸に何かが弾けた。
けれど、同時に本能がそれを否定した。
まさか。
ここに、いるはずがない。
だって彼女は――
王女レナ。
あの夜、自分のせいで傷つけてしまった少女。
あれから一度も会うことなく、ただ遠くにいるはずの存在。
それでも、目の前に立つその姿は、記憶の中と寸分違わなかった。
けれど、少しだけ変わっていた。
背は少し伸び、眼差しに幼さの影は残りながらも、どこか強さを帯びている。
「……マル、サリス……?」
その声が、名を呼んだ。
――たしかに、彼女だった。
その声に、全身が強張る。
胸の奥で凍っていた記憶が、一気に溶けて広がる。
ゆっくりと、マルサリスは少女に向き直った。
「……レナ、様……?」
たしかめるように口にした名前は、夜気に溶けて消えた。
レナもまた、目を見開いていた。
動けない。いや、動きたくなかった。
心のどこかで予感していたはずなのに――その姿を見た瞬間、言葉が消えた。
二人の間に、沈黙が落ちる。
その静寂は、まるで永遠のように長く――
けれど、どちらかが声を発さねば、ふたりはまたすれ違う。
レナが、そっと口を開いた。
「……ほんとうに、マル……なの?」
視察って言い訳して抜けてきて、ただ城下を歩いてただけなのに……まさか、あなたに会えるなんて……」
その声は、震えていた。
けれど、懸命に隠そうとしていた。
王女としての誇りが、そうさせているのだと、マルサリスには分かった。
彼は一歩、近づく。
しかし、それ以上は踏み込めない。
再会の喜びより先に、過去の罪が脳裏をよぎる。
守れなかったこと。
言葉すら残せなかったこと。
何もかもを置き去りにした自分。
レナは小さく笑った。泣き笑いのように。
「……ずるいよ、マル。ひとりで、全部抱えて。何も言わずに、行って……」
その言葉に、マルサリスは目を伏せた。
「……言える資格が、あると思えなかった」
胸の奥に張りつめていたものが、静かにほどけていく。
もう、自分を責め続けるのはやめよう――そんな気がした。
沈黙は、もはや重荷ではなかった。
そこにあったのは、確かに「再会」だった。
「……レナ、君が……ほんとうに……」
レナは微笑もうとしたが、その瞳の奥には涙が揺れていた。
「夢みたい……ほんとに、マルなんだね」
声が震える。
その一言に、マルサリスは言葉を失った。
何度この瞬間を夢見ただろうか――けれど、夢に見るたび、それはいつも遠ざかるだけだった。
守ったつもりだった。
でも結局、引き裂かれた。
言葉も、残せなかった。
ずっと、悔やんできた。
名誉も剣も、その償いだった。
「……ごめん。遅くなった」
たったそれだけの言葉に、レナは堪えきれず、涙をこぼす。
「ううん……ありがとう。生きててくれて……帰ってきてくれて……」
「……話したいこと、たくさんあるよ」
「……俺もです。けど、ここでは……目がある」
マルサリスは辺りを警戒するように目を走らせ、ゆっくりとレナの前に立った。
「この先の小道に、巡回兵の見回りが来る。……戻ってください。今は、まだ」
レナは名残惜しそうに彼を見つめる。言葉にしなくても、離れたくない気持ちは痛いほど伝わってきた。
だから、マルサリスはわずかに声を落としながら、そっと言った。
「……明日の夜、あの丘に行きます。君が昔、“秘密にしよう”って言った、あの場所に」
レナの目が、わずかに見開かれる。
「……覚えてたの?」
「あの木も、その約束も、忘れるわけがない」
二人のあいだに、静かな時間が流れた。
言葉はなくても、それだけで気持ちは伝わっていた。
レナは一歩だけ、マルサリスに背を向ける。
けれどすぐに立ち止まり、振り返らずに言った。
「……また、会える……?」
そのかすかな声に、マルサリスは小さくうなずいた。
「……ああ」
それだけで、レナは歩き出した。
風が、ふたりの間をすり抜けていった。
再びフードを被り、歩き出すレナの背を、マルサリスはしばらく見つめていた。
何年も越えてようやく巡り合った再会。
それは、まだ始まりにすぎない。
──また話そう。あの丘で。ふたりの場所で。











編集部コメント
依頼人の悩みや不安に向き合うカウンセラーという立場の主人公が見せる慈愛にも似た優しい共感と、その裏にひそむほの暗い闇。いわゆる正義ではないものの、譲れない己の信念のために動く彼の姿は一本筋が通っていて、抗いがたい魅力がありました!