前の話
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夜、彼は私を抱きしめて泣く。
ごめん、ごめんと。
『ごめんって言うなら最初からしないでよ』
そう強く言えない私は、弱いのか。
彼は泣く。理由は分からない。
酒が入ればすぐにこうだ。
泣きたいのは私の方なのに。
「ごめんね、ごめん、由紀が1番なんだ」
私には分からない。
「いいよ。これでもう最後にしてよね。」
彼の零す涙が本物なのか。
偽物なのか。
「もちろんだよ。おやすみ」
彼から匂う、
鼻腔をくすぐるような甘い女の匂いに、
吐き気がする。
既に寝落ちした彼の髪を撫でる。
「いちばんに、してよ……
私にしてよ、もう、やめてよ」
カーテンで閉め切られた部屋には、
私の僅かな泣き声と、彼の寝息と、
沢山の匂いが充満していた。
息苦しいような、慣れたような、
この空間には。
私と彼との思い出が詰まっている。
『大好きだよ』
はっきりと言えない私は、
弱虫だ。
そして、いちばん重要なことを
伝えられないのもまた、弱虫だ。
編集部コメント
依頼人の悩みや不安に向き合うカウンセラーという立場の主人公が見せる慈愛にも似た優しい共感と、その裏にひそむほの暗い闇。いわゆる正義ではないものの、譲れない己の信念のために動く彼の姿は一本筋が通っていて、抗いがたい魅力がありました!