その日は、朝から決めていた。
余計なことはしない。
深入りしない。
私は医者で、相手は患者。
それだけを、何度も頭の中で繰り返す。
カウンセリング室の前で、カルテを確認する。
名前を見ただけで、胸がわずかに反応した。
……落ち着いて。
深呼吸を一つ。
ノックの音に「どうぞ」と答える。
陽太くんは、いつも通りの様子で入ってきた。
姿勢も、表情も、大きな変化はない。
返事は短く、必要最低限。
それでいい。
それが、正しい距離。
想定通りのやり取り。
私はカルテに目を落とし、淡々と質問を続ける。
睡眠。
食事。
気分の波。
どれも、問題なし。
数値も、記録も、安定している。
自分でも驚くほど、事務的な声だった。
陽太くんが、一瞬だけ言葉を探すように視線を泳がせる。
胸の奥が、きゅっと縮んだ。
それだけ、でいいでしょ。
喉まで出かかった言葉を、飲み込む。
代わりに、医者として正しい答えを選ぶ。
間違っていない。
教科書通り。
理屈としては、完璧だ。
でも、
その声は、少しだけ低かった。
納得というより、諦めに近い響き。
私は、それ以上何も言わなかった。
言えなかった、のかもしれない。
診察を切り上げる。
陽太くんは軽く頭を下げて、部屋を出ていった。
ドアが閉まる音が、やけに大きく聞こえた。
静かになったカウンセリング室で、私は椅子に深く座り直す。
……やりすぎた?
そう思った瞬間、すぐに打ち消す。
違う。正しかった。
距離を取っただけ。
感情を持ち込まなかっただけ。
なのに、胸の奥がざわついている。
さっきの、陽太くんの表情。
何か言いかけて、飲み込んだ顔。
前にも……
ふっと、同じような場面が頭をよぎりかける。
誰かが、同じ目をしていた気がする。
だめ。
私は首を振って、思考を止めた。
今は、考えない。
白衣の袖を、無意識に強く握っていることに気づく。
指先が、少し冷たい。
医者として正しくあろうとすればするほど、
どこかが、噛み合わなくなる。
私が、守ろうとしてるのは……、誰?
患者?
立場?
それとも、自分の心?
答えは出ない。
でも、一つだけ確かなことがあった。
気づいてしまった感情は、
見ないふりをすると、
行動を歪ませる。
私は今日、それを、はっきり思い知った。
このままじゃ、いずれ取り返しがつかなくなる。
その予感だけが、
胸の奥に、重く残っていた。














編集部コメント
依頼人の悩みや不安に向き合うカウンセラーという立場の主人公が見せる慈愛にも似た優しい共感と、その裏にひそむほの暗い闇。いわゆる正義ではないものの、譲れない己の信念のために動く彼の姿は一本筋が通っていて、抗いがたい魅力がありました!