第39話

❀·°正しい距離
9
2026/02/09 09:00 更新





その日は、朝から決めていた。

余計なことはしない。
深入りしない。
私は医者で、相手は患者。

それだけを、何度も頭の中で繰り返す。

カウンセリング室の前で、カルテを確認する。
名前を見ただけで、胸がわずかに反応した。

……落ち着いて。

深呼吸を一つ。

ノックの音に「どうぞ」と答える。

陽太くんは、いつも通りの様子で入ってきた。
姿勢も、表情も、大きな変化はない。
_水瀬   咲楽@ミナセ   サクラ_
水瀬 咲楽ミナセ サクラ
こんにちは
_柊   陽太@ヒイラギ   ヒナタ_
柊 陽太ヒイラギ ヒナタ
こんにちは
返事は短く、必要最低限。

それでいい。
それが、正しい距離。
_水瀬   咲楽@ミナセ   サクラ_
水瀬 咲楽ミナセ サクラ
体調はどう?
_柊   陽太@ヒイラギ   ヒナタ_
柊 陽太ヒイラギ ヒナタ
変わりないよ
想定通りのやり取り。

私はカルテに目を落とし、淡々と質問を続ける。

睡眠。
食事。
気分の波。

どれも、問題なし。
数値も、記録も、安定している。
_水瀬   咲楽@ミナセ   サクラ_
水瀬 咲楽ミナセ サクラ
今日は特に大きな変化はなさそうだね
自分でも驚くほど、事務的な声だった。

陽太くんが、一瞬だけ言葉を探すように視線を泳がせる。
_柊   陽太@ヒイラギ   ヒナタ_
柊 陽太ヒイラギ ヒナタ
......それだけ、?
胸の奥が、きゅっと縮んだ。

それだけ、でいいでしょ。
喉まで出かかった言葉を、飲み込む。

代わりに、医者として正しい答えを選ぶ。
_水瀬   咲楽@ミナセ   サクラ_
水瀬 咲楽ミナセ サクラ
今は安定してるから
無理に掘り下げる必要はないでしょ?
間違っていない。
教科書通り。
理屈としては、完璧だ。
でも、
_柊   陽太@ヒイラギ   ヒナタ_
柊 陽太ヒイラギ ヒナタ
...うん、そっか、そうだよね、

その声は、少しだけ低かった。
納得というより、諦めに近い響き。

私は、それ以上何も言わなかった。
言えなかった、のかもしれない。
_水瀬   咲楽@ミナセ   サクラ_
水瀬 咲楽ミナセ サクラ
今日はこれでおしまい、お大事に
診察を切り上げる。


陽太くんは軽く頭を下げて、部屋を出ていった。
ドアが閉まる音が、やけに大きく聞こえた。
静かになったカウンセリング室で、私は椅子に深く座り直す。

……やりすぎた?

そう思った瞬間、すぐに打ち消す。

違う。正しかった。

距離を取っただけ。
感情を持ち込まなかっただけ。

なのに、胸の奥がざわついている。
さっきの、陽太くんの表情。
何か言いかけて、飲み込んだ顔。

前にも……
ふっと、同じような場面が頭をよぎりかける。


誰かが、同じ目をしていた気がする。
だめ。
私は首を振って、思考を止めた。

今は、考えない。


白衣の袖を、無意識に強く握っていることに気づく。
指先が、少し冷たい。

医者として正しくあろうとすればするほど、
どこかが、噛み合わなくなる。

私が、守ろうとしてるのは……、誰?
患者?
立場?
それとも、自分の心?

答えは出ない。
でも、一つだけ確かなことがあった。

気づいてしまった感情は、
見ないふりをすると、
行動を歪ませる。

私は今日、それを、はっきり思い知った。


このままじゃ、いずれ取り返しがつかなくなる。
 
その予感だけが、
胸の奥に、重く残っていた。

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