「瑞稀。君と私が出会ってから、一体何年が経ったのだろうね。」
「すっかり変わってしまった君の何もかもを、それでも私は全部受け止めてやるのにさ、君はずるいね。何も言わずに去ってしまうなんて。」
「……君の人生は、幸せだったのかい? 」
「この問いに、どうして答えが返ってくるのだろう。私はそれが、本当に悲しい。」
「まるで貴族と平民の恋物語みたいだ。彼らが成就したことなんて、一度も無かったのに。」
雪が降る。歩くたびに、背負ったライフルが音を立てた。
まるで陶器のような冬。淡く堕とされた天の欠片。
「人はいつか空に行くのだろうか。到底届かない高さから、地球の青を識るのだろうか。」
ペリースの裾についた赤は、溶けた雪に滲んでゆく。
喉を刺すような痛みは、きっと寒さのせいだけではないはずだ。
「痛みなんて感じなければ、そうすれば、私は今すぐにでも君の元へ向かうのに。」
「……それが出来ない私に残されたのはこのアンクレットだけだ。」
「……君の故郷の人間が、私たちに向かって撃ったんだ。厳密に言えば、私たちの近くの草むらに向かって。」
「私たちが応戦し始めるのをみて、彼らも持ち得る武器を取り出した。」
「彼らは無謀だと分かっていた。物資も、技術も、何もかもこちらに有利だったから。」
「彼らはきっと、撃ち合いなんてしたくなかったのだろう。人間を殺すことなどしたくないのだろう。そうでなければ、草むらになんてわざわざ撃たない。」
「戦いは常に安全な温室の中だった。私たちはただの駒。戦車よりも軽い、ただの命。歴史の数字を増やしているだけの、ただの玩具。」
ブーツが雪を踏みしめる。自分の足は常に汚れている。
それでも、この歩く道の下に一体いくつもの死体を埋めてきたのか、私は知らない。
「彼らだって泣きたかったはずだ。私も同様に、泣きたかった。」
あの場所は激戦区だった。深夜、月が見えたことは覚えている。返り血が目に入って、視界が全て赤く見えたということも。
「彼らは負けていた。明らかに戦闘不能の状態で、それでもライフルだけを握りしめていた。」
ああ、そうだ。覚えている。若い男が何かを叫んでいた。人間の有様では到底無かった。それで、騒ぎに塗れて逃げようとする人影が見えた。
「彼が走り去る寸前、一度こちらを振り返った。」
「片目でそれを認識した瞬間、私は引き金を引いた。」
その時私は、道徳を捨てた。この両腕は「殺せ」と叫んだ。
「瑞稀。こんな私を、どうして君は愛した? 」
最低だった。引き金を引いた私も、戦争を仕向けた国も、何にも反抗出来なかった彼らも。
「お願いだ、どうか答えてくれよ。」
彼女から私に手紙は送られる事はない。そして、私からの手紙は宛先が書けない。
なんて不幸なお伽噺。哭いても喚いても何も変わらない、ただの歴史の一行。そしてこの命は、端数と切り捨てられた価値のない一人になる。
「瑞稀、私はどうすれば正解だったのだろう。」
引き金を引いたのが間違いか?
戦争に参加したのが間違いか?
国境を越えて人を愛したのが間違いか?
「君と出会ったのが間違いか? 互いにプレゼントを送り合ったのが間違いか? 平和などという幻想に縋ったのが間違いか? 」
「瑞稀、私はどうすれば、」
家族も、帰る場所も、手紙も、たった一人の君でさえ失った私は、どうすれば良い?
人は脆い。失えば失うほど、大切なものを忘れてゆく。
空虚な器に残るのは、きっと操り人形でしかない。
「……なあ、幸せだったのかい? 君の人生は、私によって少しでも満たされたのかい? 」
私は、道の原型を留めていない、ただの更地を歩きつづけている。
「君が私の故郷を嫌ったとしても、私は君を愛すけれど、君はどうだい? 」
花も枯れて、草木も燃えて、この世のものとは思えないほど、何もかもが赤黒かった。
剥き出しの臓器、削られた岩の跡、泥と化した小さな水溜まり。
左足のアンクレットが、ブーツと擦れて皮膚を傷付ける。
「雪解けまでには、この戦争は幕を閉じるだろうか。」
震える声を隠すように粉雪が舞う。地面に落ちた天の欠片は、赤に溶ける。
もう殆ど神経の通らない足を引き摺って、私は未だ歩いている。
どうせ、四方八方は敵だらけだ。いくら向こうのほうが不利とは言え、一対多で勝てるほどこの場所は甘くはない。
「瑞稀、なあ、教えてくれ。」
ああ、また遠くで発砲する音が聞こえる。人が数字になって、記憶に残らず消えていく時間が、また始まる。
自分の心臓の中が、何かに縛られたまま必死に苦しさを訴えている。
遺言を残すような気持ちで、私は空に問いかけた。
「瑞稀。私はこの足で、一体何処へ征けばいいのかい? 」
編集部コメント
依頼人の悩みや不安に向き合うカウンセラーという立場の主人公が見せる慈愛にも似た優しい共感と、その裏にひそむほの暗い闇。いわゆる正義ではないものの、譲れない己の信念のために動く彼の姿は一本筋が通っていて、抗いがたい魅力がありました!