ニューヨークに来て、もう三年が経った。
最初の一年はほとんど何もわからず、
仕事と数字にしがみつくように生きていた。
ジェノのいない日々に、意味を見つけるように。
彼――ジャニとは、お見合いのような形で出会った。
韓国系アメリカ人で、物腰が柔らかくて、
どこまでも穏やかな人。
彼の英語は滑らかで、
時々交じる韓国語のイントネーションが優しかった。
結婚式は挙げなかった。
婚姻届を提出しただけの静かな始まり。
ロマンチックでも、ドラマチックでもない。
でも、ジャニはいつでも私を気遣い、
笑顔で「おかえり」と迎えてくれた。
愛はなかった。
けれど、不思議と居心地は悪くなかった。
彼の穏やかな声と大人びた優しさに包まれていると、
「愛がなくても人は生きられるのかもしれない」と思った。
私たちは一緒に会社を立ち上げた。
不動産投資と都市開発のビジネス。
最初は小さな事務所だったが、三年目にはマンハッタンの一角に支社を構えるまでに成長した。
数字は冷たいけれど、結果だけは確かだ。
それが、私の生きる証になっていた。
そんなある日――
秘書が差し出した資料の表紙に、
見覚えのあるロゴがあった。
“LEE Group”
指先が止まる。
視線が文字を追うたびに、
胸の奥がじわりと冷えていく。
――まさか。
「どうしたの?」と、ジャニが覗き込む。
「……この会社、韓国の大手企業よ。
提携交渉の相手。」
「うん。正式に契約する方向で進めたいって。
CEOが来週、直接来るらしい。」
「……CEO?」
「名前は……イ・ジェノ、だって。」
その瞬間、呼吸が止まった。
机の上の文字が滲む。
懐かしい名前が、黒いインクの中でゆっくりと蘇る。
何度も、心の中で消したはずの名前。
どれだけ時間が経っても、耳が覚えているその響き。
ジャニーは気づかないふりをして、優しく微笑んだ。
「彼、知ってるの?」
「……少しだけ。昔、同じ国にいた人。」
声が震えないようにするのが精一杯だった。
夜、オフィスの窓辺でコーヒーを飲みながら、
私は街の光を見下ろしていた。
ジェノは、どんな顔でこの街に来るのだろう。
冷たいビジネスマンの顔で現れるのか。
それともあの日、空港で私を突き放したままの表情で。
窓に映る自分の顔を見つめて、思わず笑ってしまった。
「ねぇ、私、あなたより強くなったのよ。」
呟きながら、胸の奥に小さな痛みが走る。
それでも、心はもう泣かない。
あの日の涙を最後に、私は全てを置いてきたから。
――再び、彼に会うとしても。
もう、あの頃の“私”ではない。
翌週。
取引先との会議予定表に、
その名前が正式に記されていた。
“Lee Group CEO – Jeno Lee”
時間は、残酷なほど正確に流れ続ける。
次にドアが開くとき、そこに立っているのは
かつて私が、世界でいちばん愛した人。
会議室のドアが開く音がした瞬間、
空気がひとつ、止まった。
ガラス越しに差し込む午後の光の中、
黒いスーツを纏った男がゆっくりと入ってくる。
彼の歩き方も、立ち方も、すべてが完璧で
そして、完璧なほど冷たかった。
イ・ジェノ。
数年前、あの空港で私を切り捨てた人。
私が唯一、本気で愛して、本気で失った人。
彼の髪は少し短くなっていて、
表情は以前よりも無機質だった。
笑いも、迷いも、情も見えない。
まるで氷でできた彫刻みたいに、
美しくて、痛いほど遠かった。
「こちらが、リー・グループのCEO、
イ・ジェノ氏です。」
秘書の声に、私は軽く立ち上がり、礼をした。
「初めまして。
ニューヨーク・エステート・キャピタル代表、あなたです。」
声が震えないように、ゆっくり息を吸った。
ジェノは微かに目を細め、
「こちらこそ。お会いできて光栄です。」
完璧な英語でそう言った。
まるで、私を知らない他人のように。
ほんの一瞬だけ、視線が絡んだ。
その瞬間、心臓が痛いほど跳ねた。
けれど彼の瞳には、何の感情もなかった。
怒りも、悲しみも、懐かしささえも
全部、氷の底に閉じ込められていた。
会議は淡々と進んだ。
彼の声は低く、落ち着いていて、
どんな質問にも的確に答える。
まるで、三年前に別れた彼とは別人のようだった。
私がメモを取っていると、
ふと、彼の指先がペンを止めた。
「……次の条件については、
改めて契約内容を精査します。」
少し間を置いて、私の方を見た。
その視線は、刃物のように鋭かった。
「“感情”ではなく、“数字”で話せますよね。」
淡々とした声。
その言葉に、私の胸がひりついた。
「もちろんです。」
笑って答えたけれど、喉が焼けるように痛かった。
会議が終わると、ジャニが私の肩に手を置いた。
「君、すごかったよ。」
彼の声はいつも通り穏やかで、
安心できる温度をしていた。
その優しさが、今はただ、痛い。
ガラス越しに見えるジェノは、
誰かと電話をしながら、
無表情のままエレベーターへ消えていった。
最後まで、私の方を一度も見なかった。
――でも、わかっていた。
あの人の中では、まだあの日の空港が続いている。
私が壊したあの日のまま、時間が止まっているのだと。











編集部コメント
依頼人の悩みや不安に向き合うカウンセラーという立場の主人公が見せる慈愛にも似た優しい共感と、その裏にひそむほの暗い闇。いわゆる正義ではないものの、譲れない己の信念のために動く彼の姿は一本筋が通っていて、抗いがたい魅力がありました!