-🐥 side-
最初は、リビングで待ってた。
チャニヒョンとあなたが戻ってくるまで、なんとなく全員そこにいた。
テレビはついてるのに、誰もちゃんと見てなかった。
スマホを見てる人もいたけど、たぶん中身は頭に入ってない。
ただ待ってた。
遅い、とかじゃない。
でも、待ってしまう。
あの状態のあなたを、チャニヒョンと二人きりにして送り出したあとだから。
何も気にしてないふりなんて、誰にもできなかった。
最初に玄関の方へ行ったのが誰だったかは、覚えてない。
たぶん、ほんとにささいなきっかけだった。
物音がした気がするとか、まだかなと思ったとか、そのくらいの。
でも、一人行ったら、次が行った。
その次も。
結局気づいた時には、七人で玄関のところにいた。
何してんだろ、って自分でも少し思った。
でも誰も戻らなかった。
戻る理由もなかった。
鍵の音がして、扉が開く。
その瞬間、全員の空気が一回で変わった。
最初に見えたのはチャニヒョンで、その少し後ろにあなたがいた。
そしてすぐに分かった。
目、真っ赤だ。
泣いたんだ、って、誰が見ても分かる顔だった。
隣でスンミナが、一歩前に出る。
🐶
……チャニヒョン
低い声だった。
抑えてるのに、全然抑えきれてない。
立ち向かうみたいな声だった。
その一言だけで、玄関の空気がぴんと張る。
チャニヒョンも珍しくちょっと慌てたみたいに
🐺
え、あ、これは!
って言ってて、余計にまずい感じになった。
でも、その時あなたが慌てて首を振った。
🐻❄️
違うよ
泣かされてない
話、聞いてくれたから
……涙、出ちゃっただけなの
ごめん
心配かけて
その言葉を聞いた瞬間、全員の肩から少しだけ力が抜けたのが分かった。
泣かされたんじゃない。
話を聞いてもらって、泣いただけ。
その違いは大きかった。
もちろん、それで全部安心できるわけじゃない。
でも少なくとも、僕らが玄関で固まるくらい心配してたようなことじゃなかったって分かった。
それだけで、空気が少しだけ動いた。
ハニがふっと息を吐いて、ビニヒョンも小さく視線を落とす。
リノヒョンも、さっきまでの張りつめた感じを少しだけ解いた。
スンミナだけはまだ少し険しい顔のままだったけど、それでもそれ以上チャニヒョンに何か言うことはしなかった。
みんなでリビングに戻る。
チャニヒョンが、じゃあ何か頼もうかって言い出して、結局出前を取ることになった。
その流れも、たぶん誰かが普通の空気に戻そうとした結果なんだと思う。
テーブルの上に料理が並んで、箸を持って、食べ始める。
でも、完全にいつも通りにはならなかった。
あなたはちゃんと席についてたし、食べてもいた。
チャニヒョンがたまにさりげなく様子を見て、スンミナもその横顔を気にしてる。
みんな普通に喋ろうとしてるけど、どこかでまだ緊張してる。
そんな中だった。
リビングに乱雑に置かれていたあなたのスマホから、急に着信音が鳴った。
その瞬間、空気がまた一気にぴりっとした。
誰も何も言わない。
でも全員がそうなったの、たぶん分かった。
あなたも一瞬だけ手を止めた。
その空気を察したみたいに、少しだけ目を揺らしてから
🐻❄️
……マネオッパだから
出るね
そう言って、スマホを取ってリビングの端へ行った。
僕らには声の内容までは聞こえなかった。
でも、途中であなたの顔色が変わったのは見えた。
一気に白くなる、ってこういうことなんだと思うくらい、はっきり変わった。
「PDニム、はい、すみません、わかりました」
その言葉だけが、こっちまで届いた。
その瞬間、みんな分かった。
今の相手、マネヒョンじゃない。
PDニムだ。
嫌な予感しかしなかった。
電話を切ったあと、あなたはダイニングテーブルに戻ってこなかった。
そのままソファの方へ行って、座って、スマホをタップし始めた。
何かを真剣に見ている。
途中から、手で口元を押さえる。
その仕草だけで、たぶん碌なもの見てないって分かった。
僕はスンミナを見る。
行くか、行かないか、迷ってる顔だった。
今は行った方がいいのか。
でも、スマホを見てる最中に隣へ行くのは違うか。
その迷いが、そのまま出てた。
だから、僕が先に動いた。
ソファの隣に座って、そっとスマホをのぞき込む。
一瞬で分かった。
俳優との破局のネットニュース。
動画。
それから、STAYのコメント。
どれも見たくないやつだった。
あなたが、隣に来た僕の方を見る。
🐻❄️
……こ、これって
その声が、あまりにも頼りなかった。
目が泳いでる。
あともう一回瞬きしたら、たぶん涙が落ちる。
そんなぎりぎりの顔だった。
その時だった。
リノヒョンが、何でもないみたいな声で話を変えた。
🐰
PDニムは何だって
マネヒョン、とは言わなかった。
だってもう、僕らはみんな分かってたから。
さっきの電話の相手がPDニムだったってことを。
あなたは少しだけ顔を上げた。
スマホを持つ手が、少し震えてる。
🐻❄️
……破局したんだよね
ネットニュース見たよ、って
そこで一回息が詰まる。
🐻❄️
報告してくれても良かったのにって……
話、覚えてるよね?
曲、作成始めないとだからね、わかってるね?って
それだけ……
その一言で、リビングの空気がまた凍る。
今、それ言うのかよって、たぶん全員思った。
あなたはそのまま、少しだけ視線を落として
🐻❄️
……スンミナ、ごめ、ん
スンミナのせいじゃないのに
なんでこんな……
ごめんほんとに、ごめんね
って、また謝り始めた。
スンミナがすぐ近くまで来る。
🐶
大丈夫
気にしてないから
その声は落ち着いてた。
たぶん、わざと。
🐶
俺のせいだとも思ってないし
でも、あなたは首を振るばっかりだった。
🐻❄️
……ほんとにごめん
ごめんね
ごめん……
その謝り方が、痛かった。
自分が傷ついたことより、自分のせいでスンミナが外から何か言われてることの方を痛がってる。
たぶん、そういう謝り方だった。
その時、急に大きい音がした。
ダン、って。
みんなが一斉にそっちを見る。
ハニだった。
テーブルに手をついて、明らかにキレてる。
🐿
あのPDニムなんなの!?
リビングの空気が一回止まる。
🐿
今、曲作れとか言う必要ある!?
何考えてんのほんとに!
その勢いに、あなたも一瞬圧倒されたみたいだった。
目を見開いて、それから少しだけ、ほんとに少しだけ笑ってしまう。
泣きそうなまま。
まだ目も赤いまま。
でも、そのキレ方があまりにも真正面すぎて、笑ってしまったみたいだった。
その小さい変化に、少しだけ空気がほどける。
スンミナが、あなたの方を見ながら静かに言う。
🐶
俺が好きで勝手にやってたことだから
今もね
その声は、優しいっていうより、まっすぐだった。
🐶
だから俺が離れていくことはないし
外からどう言われようと
そばに居ることも
味方でいることも変わらないからね
その言葉を聞いた瞬間、あなたの顔がまた少しだけ崩れる。
泣きそうで。
でも安心したみたいでもあって。
それから、小さい声で言った。
🐻❄️
……スンミナ
ぎゅぅして
その言い方が、あまりにも子どもっぽくて、でも今のあなたにはそれが一番自然だった。
スンミナも、少しだけ目を細めた。
🐶
わかったよ
そう言って、そのままぎゅっと抱きしめる。
あなたはその腕の中におさまって、やっと少しだけ息を吐いたみたいだった。
誰も何も言わない。
ただ、その光景を見てた。
ああ、まだ大丈夫かもしれないって。
完全じゃなくても、こうやってちゃんと受け止めてもらえるなら、まだ落ちきらないでいられるかもしれないって。
その時、ビニヒョンが、空気を戻すみたいに言った。
🐷🐇
ほら
ご飯の続き食べよ
その声が、少しだけいつも通りで。
だから余計にちょうどよかった。
あなたはスンミナに抱きしめられたまま、小さく頷いた。
僕はその顔を見ながら、さっきより少しだけましだと思った。
全然大丈夫じゃない。
でも、さっきソファで一人でスマホを見てた時よりは、ずっと。
その夜のリビングは、最後までどこかぎこちなかった。
でも、それでもちゃんと、みんな同じ場所にいた。
それだけで十分だったのかもしれないって、あとから少し思った。
-🦊 side-
あの日から、ヌナは少しずつ戻ってきていた。
“元通り”とは、全然違う。
そんな簡単なものじゃなかった。
でも、壊れたまま同じ場所に沈み続けてるわけでもなかった。
最初は、ほんの小さいことからだった。
朝、スンミナヒョンに言われる前に、自分で白湯のコップを持つとか。
ご飯の途中で止まっても、前みたいにずっと止まったままじゃなくて、少ししたらまた自分でスプーンを持つとか。
シャワーのあと、髪を半分くらいまでは自分で乾かすとか。
ほんとに、そのくらいのこと。
でも僕たちは、その“そのくらい”にいちいち救われた。
ヌナが少しでも自分で動くたびに、リビングの空気がほんの少しだけ軽くなる。
誰も大げさには喜ばない。
喜んだら壊れそうだから。
期待しすぎたら、次に落ちた時きついって、もうみんな知ってたから。
それでも、見てしまう。
今日は少し食べられた、とか。
今日は自分で立てた、とか。
今日はちゃんと目が合った、とか。
そういう小さいことばっかり、みんな勝手に数えてた。
ただ、前と違ったのは、スンミナヒョンの手の出し方だった。
前なら、ヌナが迷う前に全部やってたと思う。
何を食べるかも、何を着るかも、どう動くかも、先に決めて渡してた。
でも今は違う。
一回待つ。
ヌナが自分で手を伸ばすか、立つか、次へ行くか、ちゃんと見てから動く。
もちろん、だめそうならすぐ手を出す。
でも、“最初から全部やる”じゃなくなってた。
ヌナのことを助けながら、でも助けすぎないように。
支えながら、でも奪わないように。
見てるこっちには、それが余計にしんどそうに見えた。
ソウルコンが近づくにつれて、練習はどんどん長くなった。
時間は待ってくれない。
ヌナの回復速度に合わせてはくれない。
ステージの日だけは、普通に近づいてくる。
だから、団体練習が終わったあとも、解散して終わりにならない日が増えた。
最初にそれを言い出したのは、ヌナだった。
ある日の夜、団体練習が終わって、みんなが荷物をまとめ始めた時。
僕ももう帰る流れだと思って、水筒をしまってた。
その時、ヌナが少しだけ声を上げた。
🐻❄️
……私、少しだけ残る
振り付け、確認したい
その一言で、何人か同時に動きが止まった。
たぶんみんな、同じことを思った。
大丈夫なのかって。
でも一番早く反応したのは、やっぱりチャニヒョンだった。
🐺
うん、じゃあみんなはもう帰って
その言い方が妙に早かった。
自然、というより、先に話を切るみたいな速さだった。
ビニヒョンがすぐ言う。
🐷🐇
え、俺ら—
🐺
いいからいいから
早く帰った帰った
ちょっと笑いながら、でも全然引かない声。
そのまま手で追い出すみたいな仕草までされて、みんな少し変な顔になる。
リノヒョンも眉を寄せたけど、そこで何か言うより先に、チャニヒョンの方がさらに畳みかけた。
🐺
今日は終わり
ほら、解散
そこまで言われると、さすがに残れない。
僕たちは結局、そのまま練習室を出るしかなかった。
最初は、ただ“心配だからチャニヒョンがついてるんだろうな”くらいに思ってた。
ヌナもまだ完全じゃないし。
一人で残らせるのは危ないから。
そういうことだと思ってた。
でも、何日か続くと、少しずつ変だなと思い始めた。
だって、毎回同じだったから。
団体練習の終わりが近づく頃になると、決まって一人の先生が入ってくる。
TWICE先輩たちのヨジャドル振り付けで有名な先生。
最初見た時は、たまたまかなと思った。
でも二回、三回と続くとさすがに引っかかる。
僕らが出ていこうとすると、その先生が練習室の端で準備を始める。
音源を確認したり、靴を履き替えたり、鏡の前のスペースを見たり。
その光景が、何回見ても変だった。
しかもある日、リクスヒョンが帰り道で思い出したみたいに言ったことがあった。
🐥
あ、そういえばさ
この前、スタイリストヒョンたちが
なんかめっちゃバタバタしてて
そこで少しだけ声真似みたいに続ける。
🐥
『これから新しい衣装なんて無理だろ!』
『急に言うなよ!』
みたいなこと言ってたんだよね
その話を聞いた時も、僕は変だなと思った。
新しい衣装。
ヨジャドル振り付けの先生。
残り練習。
チャニヒョンが毎回ついてること。
でも、そこから先はやっぱり分からなかった。
そしてその“分からなさ”がちゃんと形になったのは、宿舎に帰ってからだった。
その日も遅く帰ってきて、みんなでなんとなくリビングに集まっていた。
誰かがお菓子を開けて、誰かが水を飲んで、でも会話はそこまで弾まない。
疲れてるのもあるし、頭のどこかでずっと同じことが引っかかってたからだと思う。
最初に口を開いたのは、ビニヒョンだった。
🐷🐇
てかさ
あの二人最近なんなの
その一言で、空気が少しだけ変わる。
ハニヒョンがすぐ笑う。
🐿
え、なに
嫉妬?
🐷🐇
違うわ
普通に気になるだけ
ビニヒョンが即答すると、リクスヒョンもソファの背に寄りかかったまま言った。
🐥
でも確かに
最近ずっと残ってるよね
僕もそこで、ずっと引っかかってたことを口にした。
🦊
最近いつも、団体練習の終わり頃になると
TWICE先輩のヨジャドル振り付けの先生が
練習室に入ってきません?
一瞬、空気が止まる。
ハニヒョンが先に反応した。
🐿
……あー
たしかにいた
僕はそのまま続けた。
🦊
それ、僕も思ってて
ヨジャドルダンスなんてないのにねって
そこまで言ってから、もっと変なことに気づいて続ける。
🦊
だってヌナのソロ曲
『とくベチュ、して』も
振り付け、リノヒョンが作ったじゃないですか
その一言で、リノヒョンが少しだけ顔を上げた。
🐰
……そうだな
短い声だったけど、逆にそれが本当っぽかった。
僕はそこで、余計に分からなくなる。
🦊
じゃあ、なんでだろ
その疑問が落ちたところで、今度はリクスヒョンが思い出したみたいに言った。
🐥
しかもさ
スタイリストヒョンたちの話もあるしね
ビニヒョンが眉を寄せる。
🐷🐇
……なんなんだよ、まじで
そこで、ハニヒョンがスンミナヒョンの方を見た。
🐿
スンミナ
聞いてないの?
その問い方が、なんとなくみんなの代表みたいだった。
スンミナヒョンなら何か知ってるんじゃないか。
少なくともヌナのことなら。
たぶん全員、少しはそう思ってた。
でもスンミナヒョンは、少しだけ黙ってから首を振った。
🐶
……今回ばかりは
俺も何も知らない
その答えが、意外だった。
いや、意外っていうより、だからこそ本当に分からないんだなって感じた。
スンミナヒョンまで知らないなら、なおさらだ。
ビニヒョンがソファにもたれながら言う。
🐷🐇
じゃあ余計こわいんだけど
ハニヒョンが苦笑する。
🐿
こわいっていうか
気になるよね
リノヒョンはその会話の中でも、あんまり多くは喋らなかった。
でも何も気にしてない顔でもなかった。
結局、その夜も“なんなんだろうね”のまま終わった。
何かある。
でも何かは分からない。
それ以上にはならない。
ただ、その頃には少しずつ変化もあった。
最初の頃は、残り練習のたびにチャニヒョンが絶対ついてた。
たぶんヌナ一人じゃまだ危ないからだと思う。
でも段々、チャニヒョンが途中で抜ける日が出てきた。
最後までついてる日もある。
でも、途中からヨジャドル振り付けの先生とヌナだけになってる日もある。
つまり、最初よりは一人でやれるようになってきてるってことだった。
それが分かるたびに、ちょっとだけ安心した。
ソウルコン前日。
KSPOドームでの通しリハの日。
会場に入った瞬間、空気の重さが変わる。
練習室じゃない。
本番の箱の空気だった。
広さ。
高さ。
音の返り。
スタッフの数。
全部が、もう“前日”の顔をしてる。
メンバーのテンションも、変に高いわけじゃないのに少しだけ浮いていた。
緊張してる時の、あの独特な感じ。
でもその中で、ヌナは思ってたよりちゃんとして見えた。
もちろん万全には見えない。
顔色はまだ少し白いし、ふとした時に視線が遠くなることもある。
でも、立っていた。
自分の足で。
ちゃんと流れに乗っていた。
それがもう、前の週を知ってる僕からしたら十分すごかった。
通しリハが始まる。
一曲目。
移動。
メント位置。
舞台転換。
VCRの入り。
全部が秒単位で流れていく。
本番前日のリハって、優しくない。
できないから待って、があまり許されない。
本番と同じテンポで、確認しながら進んでいく。
だからこそ怖かった。
ヌナがこのスピードについていけるのか。
途中でまた抜けたりしないか。
それを、たぶんみんな少しずつ気にしてた。
でも、ヌナはついていった。
完璧じゃないところはあった。
立ち位置で一瞬迷うところもある。
でも前みたいに、そこで全部止まってしまう感じじゃない。
迷っても、自分で戻る。
誰かの位置を見て合わせる。
そのまま次へ進む。
それを見ながら、僕は少しだけ息を吐いた。
ジニヒョンも、少し離れたところからヌナの動きをちゃんと拾ってた。
リノヒョンは必要な時だけ短く止める。
スンミナヒョンは水分と顔色を見てる。
チャニヒョンは全体を見ながら、でもたまにヌナの方も見てる。
なんだかんだで、みんなずっと見てた。
リハが一段落して、舞台袖に戻る。
その時、マネヒョンがこっちへ来た。
「あなた、残って。ちょっと詰めた方がいいところあるから」
その一言で、また何人かが顔を上げる。
ヌナは少しだけ驚いた顔をしたけど、すぐに頷いた。
🐻❄️
……はい
そこでマネヒョンが、すぐ横にいたチャニヒョンを見る。
「チャニも残れるか?」
チャニヒョンはほとんど間を空けずに答えた。
🐺
あ、はいはい
その言い方が、やっぱり少し引っかかった。
マネヒョンはそれを聞いて、僕たちの方を見た。
「じゃあ残りは解散で」
それで、本当に終わりになった。
僕たちはそのまま出るしかない。
残るのは、ヌナとチャニヒョンだけ。
舞台袖から出ながら、少しだけ後ろを見る。
ヌナはもう一回ステージの方を見てた。
チャニヒョンはマネヒョンと何か確認してる。
やっぱり、何かある。
しかも、かなりちゃんと準備されてる何かだ。
リハが終わる頃には、会場の空気がもうほとんど本番前だった。
スタッフの声も早くなる。
確認事項も増える。
舞台袖の通路は人で埋まる。
でもその全部の真ん中で、ヌナはちゃんと立っていた。
少なくとも、前みたいに壊れそうには見えなかった。
もちろん、まだ危うい。
それは分かる。
でも、危ういままでも前へ進めるくらいには戻ってきていた。
たぶんそれが、今いちばん大きかった。
その夜、宿舎へ戻る車の中で、誰もあまり喋らなかった。
疲れてたのもある。
明日が本番っていう緊張もある。
でもそれだけじゃなくて、みんなそれぞれ何かを考えてる顔をしてた。
-🐰 side-
今日はソウルコン本番だった。
その事実だけで、朝から空気が違った。
宿舎を出る前からみんな少しずつ静かで、でも完全に静かでもなくて。
それぞれがそれぞれの緊張の仕方をしてるって感じだった。
俺はそういう日の空気が嫌いじゃない。
好きでもないけど、嫌いじゃない。
張りつめてるくせに、どこか浮いてる。
本番前の、あの独特な感じ。
ただ、その朝ひとつだけ引っかかったことがあった。
あなただけ、入り時間が二時間早かった。
最初に聞いた時は、少しだけ眉を寄せた。
二時間。
さすがに早い。
でも、その違和感はすぐ別の理由で打ち消された。
今のあなたに、ぶっつけ本番みたいなことをさせるわけにはいかない。
ウォーミングアップも、喉の確認も、リハの流れの再確認も、ちゃんとやらなきゃいけない。
それに、あなたは女の子だ。
衣装もヘアメイクも、俺らより細かい準備が多い。
そういうのを考えたら、早入りでもおかしくないのかもしれないと思った。
だから、その時点では深く考えなかった。
むしろ、ちゃんと余裕を持たせてるならその方がいい、くらいに思った。
会場に着いてからも、あなたは思っていたより落ち着いて見えた。
もちろん万全な顔じゃない。
分かるやつには分かる。
少し白いし、笑っててもどこか薄い時がある。
でも、少なくとも前みたいな危うさは表に出してなかった。
それが逆に怖い時もある。
隠してる時の顔も、声も、俺なら分かる。
少なくとも、分かってきたつもりだった。
だから本番前も何回か見た。
目の動き。
息の浅さ。
返事の間。
そういうのを。
でも、その日は不思議なくらい引っかからなかった。
ちゃんと立ってた。
ちゃんと返してた。
ちゃんと前を向いてた。
それが、少しだけ安心で。
少しだけ不気味だった。
本番が始まる。
歓声が上がる。
ライトが落ちる。
音が入る。
ステージに立った瞬間、会場の空気が一気にこっちに流れ込んでくる。
それを受けた時のあなたは、今までにないくらい頑張ってた。
いや、“頑張ってる”なんて言い方じゃ軽いかもしれない。
無理やりでも、必死にでも、とにかく落とさないように前へ進んでた。
振りも。
表情も。
視線も。
全部。
たぶん今日のあなたは、自分がどこまでできるかじゃなくて、どこまで落とさずにいられるかで立ってた。
何曲目かで、一回だけほんの少しふらついた。
他のやつには分からないくらいの揺れだったかもしれない。
でも俺には分かった。
移動の時、一瞬だけ軸が抜けた。
その時にはもう、近くにいたスンミナがさりげなく肩に手を添えてた。
ほんとに一瞬。
観客から見たら、ただの動線の一部に見えるくらい自然に。
次の立ち位置ではジニが少しだけ近い位置を取った。
視界に入るように。
迷ってもすぐ拾えるように。
水のタイミングではリクスが先にボトルを持ってたし、イエナもさりげなく横に入る。
ハニはハニで、空気を重くしないように妙にテンションを上げる時がある。
ビニは雑に見えて、でも絶対近くから離れない。
チャニヒョンは全体を回しながら、ちゃんとあなたも見てる。
結局、全員だった。
みんなで支えてた。
支えてるって顔を出さないまま。
それが今日のステージだった。
あなたも、それにちゃんと応えてた。
苦しそうな瞬間はある。
でも、落ちない。
止まらない。
前へ行く。
正直、すごいと思った。
ここまで戻したのも。
ここまで隠したのも。
ここまで立ちきってるのも。
アンコール前のメントに入る。
順番は決まってる。
俺。
ハニ。
イエナ。
リクス。
あなた。
チャニヒョン。
ジニ。
スンミナ。
ビニ。
その流れで、ひとりずつ話していく。
歓声が少し落ち着いて、会場全体が“最後の一言を聞こう”って空気になる。
あの時間は嫌いじゃない。
ライブの熱が、言葉に変わる時間だから。
俺が話して、ハニが笑わせて、イエナが真っ直ぐに言葉を渡して、リクスがやわらかく締める。
その次があなただった。
あなたは、ちゃんと笑ってた。
少し掠れた声で。
でも、いつも通りに聞こえるように。
STAYの方を見て、丁寧に言葉を選んでた。
俺はそれを、少し横から見てた。
無理してる時の顔は知ってる。
声も分かる。
隠してる時の間合いも、前よりは分かるようになった。
だから見てた。
でも、そのメントのあなたは、本当に分からなかった。
うまく隠してるんじゃなくて。
本当にそこでは、ちゃんと笑えてるように見えた。
そのメントが終わる。
拍手。
歓声。
そしてそのままチャニヒョンのメントが始まる。
その瞬間だった。
あなたが、少しだけ後ろへ下がった。
最初は、水でも飲むのかと思った。
でも次の瞬間、スタッフの動線に沿うみたいに、そのまま裏へはけていく。
チャニヒョン以外、たぶん全員見逃さなかった。
俺も、すぐ気づいた。
心臓が一瞬だけ冷える。
やっぱり限界だったのか。
しんどかったのか。
たった今まで、そんなふうには全然見えなかったのに。
いや、俺なら気づけるはずだった。
隠してる時の顔も、声も、もう分かるはずだった。
でも全然そんなふうじゃなかった。
本当に。
追いかけたい、と思った。
確認したい。
大丈夫なのか見たい。
何もなかったのか、ちゃんと知りたい。
でも、今はメント中だ。
ステージの上だ。
俺が勝手に動けるタイミングじゃない。
その場に足を縫い止められたみたいに、何もできなかった。
そんなことを考えてたら、最後、ビニのメントが終わろうとしていた。
その時だった。
チャニヒョンが急に前へ出た。
そして、いつもの締めとは違う声で言った。
🐺
さて!
ここでみなさんに大きなサプライズがあります!
会場が一気に沸く。
STAYがすぐに反応する。
歓声がひとつ大きくなる。
でも、俺らは何も聞いてない。
チャニヒョン以外、本当に分からなそうな顔をしてたと思う。
少なくとも俺は、普通に意味が分からなかった。
え?
何?
今?
って。
チャニヒョンはそんな俺らを見て、どこか楽しそうに笑う。
🐺
まぁまぁ、みんないいから
こっちに座って
そう促されて、俺らはステージ中央、へりに近いところまで移動させられた。
STAYに背を向ける形で。
ステージの上から、ステージとモニターを見る形で。
みんなで床に座る。
意味が分からない。
隣のハニが、ほんとに小さい声で言う。
🐿
え? なに?
反対側のイエナも同じ顔をしてる。
🦊
まじでなに??
ジニも眉を寄せてるし、リクスも完全に分かってない顔だ。
ビニも口を半分開けたまま止まってる。
スンミナだけは、座る直前までスタッフの方を見てた。
口パクで、あなたは? って確認してるのが見えた。
でも、チャニヒョンに
🐺
いいから、座って
って半分引っ張られるみたいにして、そのまま下ろされた。
俺も座ったけど、全然落ち着かない。
あなたは今どこにいる。
何のサプライズだ。
なんで俺らだけ知らない。
その全部が頭の中でぶつかってる。
その時、急に会場が暗転した。
さっきまでの歓声が、ざわめきに変わる。
そして、静かなピアノの音が流れ始めた。
その一音目で、空気が変わる。
今までのアンコール前の空気じゃない。
もっと張ってる。
もっと、何かが始まる前の音だった。
次の瞬間、ひとつのライトが落ちた。
ステージの上。
たったひとりの女の子を照らすように。
そこにいたのは――
あなただった。













編集部コメント
依頼人の悩みや不安に向き合うカウンセラーという立場の主人公が見せる慈愛にも似た優しい共感と、その裏にひそむほの暗い闇。いわゆる正義ではないものの、譲れない己の信念のために動く彼の姿は一本筋が通っていて、抗いがたい魅力がありました!