前の話
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午前七時。
一条蓮の目覚めはいつも正確だった。目覚まし時計が鳴る一秒前、彼の鼓膜は、世界に一つしかない**「音」**を拾い上げ、自動的に深い眠りから浮上する。
それは、特定の周波数を持たない、透明な音楽。
微かにガラスが振動するような高音でありながら、同時に深い地の底から響くような低音も含む、矛盾した音色だった。蓮はそれを、**「透明ノイズ」**と呼んでいた。
蓮は体を起こし、簡素なデスクの上のコーヒーメーカーのスイッチを入れた。ここ数週間、透明ノイズは頻度を増している。特に、自身が住む築40年の木造アパート**『月影荘』**の二階、隣の部屋――つい先日まで空室だった場所から、その音は明確に聞こえてくるようになった。
蓮の日常は、誰が見ても単調で平凡だった。出版社で校正や版権管理の仕事をし、昼は定食屋でサバの味噌煮を食べる。夜はまっすぐ帰宅し、読書か古い映画を見る。感情の波は、まるで東京湾の静かな水面のように凪いでいた。
しかし、その日常は先週、隣の部屋に神楽坂雫という女性が引っ越してきたことで、微かに、しかし確実に軋み始めた。
カチャリ。
隣室から、食器が擦れる小さな音がした。蓮の耳には、その音に紛れて、例の透明ノイズが、まるで雫が発する音の**「影」**であるかのように寄り添っているのが聞こえる。
蓮は自分に言い聞かせた。透明ノイズは幼い頃のトラウマからくる幻聴だと、医者に言われている。他人に話しても信じてもらえるはずがない。
淹れたてのコーヒーを一口飲み、蓮は出勤の準備を始めた。
アパートの玄関を出たところで、彼と彼女は鉢合わせた。
雫が小さく微笑んだ。彼女の笑顔は、まるで春先の淡い陽光のようで、思わず目を細めてしまう。
彼女は、いつも古い刺繍の入ったブラウスと、くすんだ色のスカートを纏っている。どこか時代がかった雰囲気が、周囲の現代的な建物から浮いているように見えた。
雫は、持っていた麻袋を軽く持ち上げた。その中には、すでに数枚のLPレコードが入っているようだ。
恋愛の要素など、蓮の辞書には存在しなかった。しかし、雫と話すとき、彼の胸の奥で、普段は停止している何かの回路が、微かにスパークするのを感じる。それは決して胸の高鳴りではなく、むしろ、**「恐怖」**に近い、未知の感情だった。
二人の会話に、突然、背後から低い声が割り込んできた。
振り返ると、**「管理人」**が立っていた。年齢不詳、性別不明。いつも真っ黒な作業服に身を包み、目深に被った帽子のせいで、顔の輪郭すら判然としない。
管理人は、蓮だけを見て言った。
蓮は首を傾げた。彼は夜十時には就寝し、物音を立てるような趣味はない。そして、上階は空室のはずだ。
管理人はそう言い残し、足音も立てずに建物の陰へと消えていった。
雫が呟き、不安そうな表情で蓮を見た。
雫はそう言い、小走りに路地の奥へと曲がっていった。彼女の姿が見えなくなった瞬間、蓮の鼓膜に、再び透明ノイズが突き刺さった。
キィィィィン……
それは、さっきよりもはるかに大きく、悲鳴のように聞こえた。
午後八時。蓮は出版社での仕事を終え、親友の古橋雄大と合流した。
雄大は、新宿の居酒屋でビールジョッキを傾けながら、興奮気味に言った。
雄大は笑うが、蓮の表情は硬いままだった。
蓮は、今日の朝、管理人が言った言葉を伝えた。
















編集部コメント
依頼人の悩みや不安に向き合うカウンセラーという立場の主人公が見せる慈愛にも似た優しい共感と、その裏にひそむほの暗い闇。いわゆる正義ではないものの、譲れない己の信念のために動く彼の姿は一本筋が通っていて、抗いがたい魅力がありました!