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第1話

透明な隣人
4
2025/11/06 10:07 更新
午前七時。
​一条蓮の目覚めはいつも正確だった。目覚まし時計が鳴る一秒前、彼の鼓膜は、世界に一つしかない**「音」**を拾い上げ、自動的に深い眠りから浮上する。
​それは、特定の周波数を持たない、透明な音楽。
​微かにガラスが振動するような高音でありながら、同時に深い地の底から響くような低音も含む、矛盾した音色だった。蓮はそれを、**「透明ノイズ」**と呼んでいた。
一条 蓮
一条 蓮
またか
​蓮は体を起こし、簡素なデスクの上のコーヒーメーカーのスイッチを入れた。ここ数週間、透明ノイズは頻度を増している。特に、自身が住む築40年の木造アパート**『月影荘』**の二階、隣の部屋――つい先日まで空室だった場所から、その音は明確に聞こえてくるようになった。
​蓮の日常は、誰が見ても単調で平凡だった。出版社で校正や版権管理の仕事をし、昼は定食屋でサバの味噌煮を食べる。夜はまっすぐ帰宅し、読書か古い映画を見る。感情の波は、まるで東京湾の静かな水面のように凪いでいた。
​しかし、その日常は先週、隣の部屋に神楽坂雫という女性が引っ越してきたことで、微かに、しかし確実に軋み始めた。
​カチャリ。
​隣室から、食器が擦れる小さな音がした。蓮の耳には、その音に紛れて、例の透明ノイズが、まるで雫が発する音の**「影」**であるかのように寄り添っているのが聞こえる。
一条 蓮
一条 蓮
気のせいだ
​蓮は自分に言い聞かせた。透明ノイズは幼い頃のトラウマからくる幻聴だと、医者に言われている。他人に話しても信じてもらえるはずがない。
​淹れたてのコーヒーを一口飲み、蓮は出勤の準備を始めた。
​アパートの玄関を出たところで、彼と彼女は鉢合わせた。
神楽坂 雫
神楽坂 雫
おはようございます、一条さん
​雫が小さく微笑んだ。彼女の笑顔は、まるで春先の淡い陽光のようで、思わず目を細めてしまう。
一条 蓮
一条 蓮
ああ、おはようございます、神楽坂さん
​彼女は、いつも古い刺繍の入ったブラウスと、くすんだ色のスカートを纏っている。どこか時代がかった雰囲気が、周囲の現代的な建物から浮いているように見えた。
神楽坂 雫
神楽坂 雫
今日も早いんですね。お仕事、お疲れ様です
一条 蓮
一条 蓮
ええ。神楽坂さんは?」
神楽坂 雫
神楽坂 雫
私は…今日は少し、レコードを探しに街を歩こうかと。古い音楽が好きなんです
​雫は、持っていた麻袋を軽く持ち上げた。その中には、すでに数枚のLPレコードが入っているようだ。
​恋愛の要素など、蓮の辞書には存在しなかった。しかし、雫と話すとき、彼の胸の奥で、普段は停止している何かの回路が、微かにスパークするのを感じる。それは決して胸の高鳴りではなく、むしろ、**「恐怖」**に近い、未知の感情だった。
篠原 藍
篠原 藍
おや、神楽坂さんもレコード集めか。趣味がいいね
二人の会話に、突然、背後から低い声が割り込んできた。
​振り返ると、**「管理人」**が立っていた。年齢不詳、性別不明。いつも真っ黒な作業服に身を包み、目深に被った帽子のせいで、顔の輪郭すら判然としない。
篠原 藍
篠原 藍
一条、昨日の夜、上の階から変な音がしたと苦情があったぞ。アパートは古いんだ、静かに暮らしてくれ
​管理人は、蓮だけを見て言った。
一条 蓮
一条 蓮
変な音ですか?私は特に何も…
​蓮は首を傾げた。彼は夜十時には就寝し、物音を立てるような趣味はない。そして、上階は空室のはずだ。
篠原 藍
篠原 藍
まあ、気を付けてくれ。特に**『透明な音』**にはな
管理人はそう言い残し、足音も立てずに建物の陰へと消えていった。
神楽坂 雫
神楽坂 雫
透明な音…
​雫が呟き、不安そうな表情で蓮を見た。
神楽坂 雫
神楽坂 雫
変な人ですね。気にしないでください。それじゃ、私はこれで
​雫はそう言い、小走りに路地の奥へと曲がっていった。彼女の姿が見えなくなった瞬間、蓮の鼓膜に、再び透明ノイズが突き刺さった。
​キィィィィン……
​それは、さっきよりもはるかに大きく、悲鳴のように聞こえた。
​午後八時。蓮は出版社での仕事を終え、親友の古橋雄大と合流した。
古橋 雄大(サブ)
古橋 雄大(サブ)
それにしても、蓮。あの古くてボロい月影荘に、あんな美人が引っ越してくるなんて、一体どういう風の吹き回しだよ?
雄大は、新宿の居酒屋でビールジョッキを傾けながら、興奮気味に言った。
一条 蓮
一条 蓮
さあ。ただの隣人だ
古橋 雄大(サブ)
古橋 雄大(サブ)
『ただの隣人』ね。お前のその超合理的でクールな態度、いつまで持つかな。そろそろ『恋愛』という名の非合理に身を任せろよ
雄大は笑うが、蓮の表情は硬いままだった。
一条 蓮
一条 蓮
雄大。一つ、聞きたいことがある
蓮は、今日の朝、管理人が言った言葉を伝えた。
古橋 雄大(サブ)
古橋 雄大(サブ)
『透明な音』、だと?
一条 蓮
一条 蓮
そうだ。そして、管理人はその言葉を、俺だけを見て言った。まるで、俺がその音の正体を知っているかのように
古橋 雄大(サブ)
古橋 雄大(サブ)
そりゃ、ただの老人の戯言だろ。古びたアパートのホラー話なんて、いくらでもある

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