無機質な静寂が,一ノ瀬家の物の少ないリビングを支配する。
かつてここにあった,奈津が料理をしながら鼻歌を歌ったり,つまみ食いする夢津を叱ったりしていた,あの賑やかで騒々しい生活の残響は,もう一滴も残っていない。
奈津は,もうここにはいない。
物理的にはいる。けれど,彼女の心は一ノ瀬家から,そして「一家を支えるお姉ちゃん」という枠組みから完全にログアウトしてしまった。
ぽつりと零した独り言に,リビングの隅で教科書を開いただけで一向にシャーペンが進まないでいる琉津は答えない。
自分が放った「お姉ちゃんなんていらない」なんて言葉が,文字通り現実へとなってしまったことにただただ戦慄しているように見えた。
署名を終えてからの奈津は,驚くくらいに軽やかだった。
「ごめんね,私もう疲れちゃった」
「今日から友達の家に泊まってくるから,ご飯は適当にやっといてね」
そう言って,一度も振り返らずに玄関を飛び出す背中。
かつてなら,弟たちの栄養バランスを考えて,自分の睡眠時間を削ってまでして夜中1人で何日分もの作り置きをしてから出かけていたはずの彼女。
その彼女が,今は冷蔵庫の中身すら気にかけなかった。
今更になって絶大な後悔が押し寄せてくる。
現場で,聞いていたはずなのに。もっと良い案を出せたはずなのに。
それなのに,止められなかった。
一番近くにいたのは,私のはずなのに。
胃の奥が焼けるように熱い。
あの日,琉津が,奈津のためを思って,奈津を突き放したとき。
奈津が魂が削れるような音を立てて,それでも感情は一切表に出さずに絶望したとき。
場に直面したはずなのに,私はただ隣で立ち尽くしていることしかできなかった。
親友が壊れていく瞬間を特等席で眺めていただけの,無能な観測者。
それが,私だった。
その私は,今も変わらないままで,全くと言っていいほどに成長を遂げていない。
ピコン,とスマートフォンの通知音が鳴る。
画面に浮かぶは,月影家へ乗り込んだ詩織からのメッセージ。
「ひめちゃん,凪葉家の債務状況の整理がついたよ」
「お父様も,私の分析力を認めてくれた」
「凪葉家も,一ノ瀬家も私が法的にも経済的にも守り抜いてみせるから」
その整然とした,自信に満ちた文字列を見た瞬間,心臓がギリ,と締め付けられた。
詩織。あんなに臆病で,私のお父さんを恐れていたはずの詩織が。
今あの大蛇の巣穴のような屋敷で,驚くべきポテンシャルを開花させている。
彼女は,奈津を救うために「月影の娘」という役割を自ら買って受け,その檻に驚くべき速度で適応した。適応してしまったのだ。
乾いた唇から,独り言が零れる。
詩織からの報告は,日を追うごとに冷徹かつ効率的になっていく。
まるで私の父をそのまま投影させているかのようにも感じられる。
彼女が,月影の女王として完成されていけばいくほどに,私たちの知っている,臆病で静かな詩織の輪郭がぼやけ,溶けていく。
そして,それに対する私の感情は,賞賛ではなかった。
醜い,どろどろとした嫉妬。
親友を救うために自分を殺している詩織への,置いていかれる恐怖から来る妬み。
自分が長年積んできたキャリアを横から搔っ攫ってかれたかのような喪失感。
私,親友になんて感情抱いてるんだ。
詩織は辛いのに頑張っているはずなのに。
その心の奥で,微量の不安が生まれる。
詩織は,才能を開花させた。
それを十分に活かして,自分と凪葉家,両方を並行して守ろうとしている。
奈津は,自分を捨てて,自由になろうとしている。
2人がやっていることは,反対だ。
それなのに,2人は自分の力を最大限活用して,自分の守りたいものを守って生きている。
それじゃぁ,私は ??
月影の娘として育てられただけの,何の変哲もない一ノ瀬家の子。
でも今更一ノ瀬家で,「お姉ちゃん」になろうとしても,琉津との間にある深い溝は一生埋まらないし,奈津がこれまでこなしてきた家事の半分も満足にできない。
琉津や御手洗の方が圧倒的にできるレベル。
お姉ちゃんになりきれず,月影の家にも帰れない。
親友の劇的な変化にもついていけずにいる。
私は,どこにも属せない「空白」だった。
震える手で差し出されるスマートフォン。
液晶に映っているのは,
17年間で,1回も見たことのないファッションをして,
流行ってるメイクをして,知らない女子達と笑っている奈津の姿。
自分のことに気を使っていないわけでは決してないが,
自分のことは基本後回しにしていた彼女の,見たこともない奔放な笑顔。
それはこれまで背負ってきた重荷が剥がされて,生きる意味も見当たらないまま,死を覚悟した人間が見せる刹那的な輝きによく似ていた。
それ以上言葉を紡げなかった。
奈津を抱きしめる権利も,琉津を叱る権利も,詩織に嫉妬する権利だって,どれも私は持ち合わせてない。
ただこの冷え切った家の中で,他人の家族が崩壊していく様を見せつけられているだけだ。
そこに私が干渉する権利も,勇気もない。
心臓の音が,やけにうるさい。
これは,罪悪感の音か。
それとも,居場所を失った焦燥の音か。
詩織は,月影家という檻のなかで,その牙を研いでいる。
奈津は,街の喧騒のなかで,自分を消そうとしている。
私は,一ノ瀬家のリビングに立ち尽くして冷めた夕食を見つめる。
ここには,私の帰る場所なんて最初から無かったのかもしれない。
詩織のいる月影家にも戻れない。
でも,一ノ瀬家にだって私が介入する隙間は1ミリも残されていない。
休みたいなぁ,なんてふと思う。
自分が自分で入れる場所に帰りたい。
奈津も詩織も我慢している時にこんな事を思うのは,我儘で,傲慢で,滑稽なのかもしれない。
膝を抱えて床に座り込む。
一ノ瀬家の床は冷たく,月影家の絨毯のような温もりはない。
尤も,月影家で床に座り込んだことなどないのだが。
詩織からの再度のメール。
『ひめちゃん,状況はどう ??』
『なーちゃんはちゃんと食べれてる ??』
その問いに,私は嘘を塗る。
「だいじょぶ,」
「奈津も,琉津も私が見てる,」
「安心して,詩織は自分の仕事に集中してくれたらいいから」
送信ボタンを押す指が激しく震えた。
嘘だ,全部,嘘だ。
奈津は私を見捨てるように遊び歩き,琉津は私を透明人間のように扱い,私はただ誰の役にも立てないまま,この空洞のような家で窒息しそくになっている。
元はといえば,私のせい。
奈津と対立したのは自分。
琉津を最初に無視して扱ったのは自分。
自業自得。知ってる。
それでも,それでも苦しい。
詩織が,月影家に順応し,成果を上げれば上げるほど。
奈津が姉であることを拒絶し,遠くへいけばいくほど。
私は,親友という肩書すら失って,たった一人で暗闇に取り残されていく。
その恐怖が,「血の入れ替え」なんかよりもずっと私にとって残酷だった。
夜が更けても,玄関のドアが開く音はしない。
一ノ瀬家の静寂は,私の存在を否定するように,どこまでも冷たく広がっていった。
詩織ちゃん視点を書くと思わせて久々の妃華ちゃん視点です
駄作ですね〜〜、次はセリフ多めになるので読みやすいかと 🙌
なんとなく朝に投稿してます
そろそろ琉津くん視点を書きたい













編集部コメント
依頼人の悩みや不安に向き合うカウンセラーという立場の主人公が見せる慈愛にも似た優しい共感と、その裏にひそむほの暗い闇。いわゆる正義ではないものの、譲れない己の信念のために動く彼の姿は一本筋が通っていて、抗いがたい魅力がありました!