
差し出された小さな消しゴムを受け取るとき、ほんの少しだけ指先が触れ合う。それだけで、僕の心臓はうるさいくらいに跳ねた。
僕、ちぐさには、世界が少しだけ灰色に見える瞬間がある。
インターネットの世界では、声を張って、みんなを笑顔にする活動をしているけれど、現実の僕はどこか冷めていて、臆病で、自分が傷つくのも人が傷つくのも怖くて、一歩引いて生きていた。
そんな僕のモノクロの日常に、鮮やかな絵の具をぶちまけたのが、同じクラスの君だった。
君はいつも、誰にでも平等で、太陽みたいに笑う。
僕みたいな目立たない男の子にも、当たり前のように話しかけてくれる。
君が笑うたび、僕の胸の奥がキュンと痛む。嬉しいのに、苦しい。
だって、こんなに素敵な君が、どうして僕なんかと一緒にいてくれるんだろう。
いつかこの幸せがパチンと弾けて消えてしまうんじゃないか、そんな怖さがいつも心の片隅に張り付いていた。
季節は巡り、僕らはいつしか放課後に二人で残って話をするくらいには、特別な関係になっていた。
夕暮れ時の教室。オレンジ色の光が、君の横顔を綺麗に照らしている。
君の真っ直ぐな瞳が、僕の心の奥底を覗き込んでくる。
僕は慌てて視線を逸らした。
君のその優しさが、痛い。
本当は分かっている。僕には過去のトラウマや、誰かに拒絶されることへの恐怖という「綻び(ほころび)」がある。
君はそれを、ありのまま包み込もうとしてくれているのに。
僕は自分が傷つくのが怖くて、君をそれ以上踏み込ませないように、見えない壁を作ってしまう。
ぽつりと溢された君の言葉に、僕は息を呑んだ。
その瞳は、少しだけ泣きそうに揺れていた。僕の臆病な態度が、君を不安にさせていたんだ。
その日を境に、僕らの間に奇妙な距離ができた。
話しかければ今まで通り笑ってくれるけれど、どこか余所余所しい。
僕が所属している『AMPTAKxCOLORS』のメンバーにも、「ちぐさ、最近なんか元気なくね?」と心配される始末だった。
画面の向こうのリスナーさんには笑顔を届けられているのに、一番大切にしたい君一人を、僕は不安にさせて、傷つけている。
自分の不甲斐なさに、胸が潰れそうだった。
もし明日、君が僕の前から消えてしまったら?
もう二度と、僕の名前を呼んでくれなくなったら?
そう考えた瞬間、全身の血が凍りつくような恐怖が襲ってきた。
プライドなんて、臆病な自衛なんて、どうでもいい。
僕はただ、君を失いたくない。
雨が降り出しそうな、曇天の放課後。
僕は、校門へと向かう君の後ろ姿を見つけた。
自分でも驚くほど大きな声が出ていた。
振り返った君は、驚いたように目を見開いている。
僕は駆け寄り、君の肩を掴んだ。息が上がって、上手く言葉が出てこない。でも、ここで言わなきゃ、一生後悔する。
君の瞳から、ぽろぽろと涙が溢れ出す。
僕は一歩踏み込んで、泣きじゃくる君の身体を、壊れ物を扱うように優しく抱きしめた。
君の小さな手が、僕の背中に回る。
強く、強く、僕のシャツを掴むその感触が、幻じゃない現実だと教えてくれた。
耳元で聞こえた愛おしい声に、僕の心を満たしていたモノクロの霧が、完全に晴れた。
僕らは、完璧な人間じゃない。
これからも傷ついたり、悩んだり、すれ違うこともあるかもしれない。
だけど、君の手を握る僕の手に、もう迷いはない。
夕暮れ時、二つの影が長く伸びて、ひとつに重なる。
君と出会えたこの世界で、僕は僕の名前を呼ばれる喜びを知った。
『アイネクライネ』——僕にとってのそれは、世界中でたった一人、目の前で笑う君のことだ。
溢れた言葉は、初夏の風に溶けて、二人の未来を優しく彩っていった。














編集部コメント
主人公は鈍感で口下手ではあるものの『コミュ障』というほどではないので、キャラの作り込みに関しては一考の余地があるものの、楽曲テーマ、オーディオドラマ前提、登場人物の数などの制約が多いコンテストにおいて、条件内できちんと可愛らしくまとまっているお話でした!<br />転校生、幼馴染、親友といった王道ポジションのキャラたちがストーリーの中でそれぞれの役割を果たし、ハッピーな読後感に仕上がっています。