組織の深淵、外光さえ届かない地下の研究施設。
そこには、数日前まで帝丹小学校の教室で笑っていた少女の面影はどこにもなかった。
「……適合率は。マラスキーノ」
ジンの冷徹な声が響く。少女――かつて「あなたの下の名前」と呼ばれた彼女は、真っ白な研究服に身を包み、感情の抜け落ちた瞳でモニターを見つめていた。彼女の目の前には、かつて灰原哀が恐れた、あの禍々しい薬品のデータが羅列されている。
「……問題ありません。すべて、予定通りです」
彼女の声は、低く、硬い。安室透と過ごした日々に宿っていた温かな響きは、氷点下の闇に捨ててきた。彼女は今、組織の「最高級のリキュール」としての役割を完遂することだけを、自らに課している。
それこそが、残された彼を――降谷零を、組織の牙から遠ざける唯一の手段だと信じているからだ。
一方、地上では。
ポアロの厨房に立つ安室の姿は、常連客たちの目にも明らかに「異様」に映っていた。
無駄のない動き、完璧な笑顔。だが、その瞳には光が一切なく、まるですべての感情を削ぎ落とした精密機械のようだった。
閉店後、真っ暗な店内で彼は一人、カウンターに置かれた「青い傘」を見つめていた。
「……まだ、終わっていない」
絞り出すような声が、静寂を裂く。
彼は、彼女が最後に浮かべたあの微笑みの意味を、痛いほど理解していた。彼女は自分を犠牲にして、彼に「正義」を全うさせようとした。自分という重荷を切り離すことで、彼を組織の疑念から救おうとしたのだ。
「馬鹿だな、君は……。君のいない世界を守ることに、どれほどの絶望が伴うか……考えもしなかったのか」
安室の手が、傘の持ち手を強く握りしめる。
彼はポケットから、彼女が学校のプリントに書き置きしていた「あなたの下の名前」という名前の断片を取り出した。
「マラスキーノ……。いや、あなたの下の名前。君が僕を逃がしたというのなら、僕はその隙に、君を繋いでいる鎖をすべて叩き切る」
彼は携帯電話を取り出し、風見ではなく、ある「協力者」へ連絡を入れた。
それは、公安警察官としての越権行為であり、降谷零としての破滅への第一歩。
「……僕だ。作戦を最終段階(フェーズ・ゼロ)へ移行する。……ターゲットは組織の心臓部。……ええ、あの子を奪還し、この街から組織の影を永久に抹消する」
闇の中で、琥珀色の瞳が狂気にも似た光を放つ。
少女が選んだ「さよなら」という結末を、男は「宣戦布告」として受け取った。
名もなき少女が深い闇の中で眠りにつき、孤独な騎士が死神へと変貌する。
二人の運命は、再会の歓喜ではなく、血と硝煙にまみれた終焉へと加速していく。












編集部コメント
依頼人の悩みや不安に向き合うカウンセラーという立場の主人公が見せる慈愛にも似た優しい共感と、その裏にひそむほの暗い闇。いわゆる正義ではないものの、譲れない己の信念のために動く彼の姿は一本筋が通っていて、抗いがたい魅力がありました!