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第1話

助けた日から
237
2025/12/07 01:43 更新
稽古場の空気はいつだって独特だ。 
ピアノの音、ストレッチする音、譜面をめくる小さな紙の音、全てが舞台へ向かう高揚を積み重ねていく。
その日、私は舞台に向けてひたすら振り付けを反復していた。ふと視線を見上げれば、階段の上から組子に指示を出す
桜木さんが見える。
長い手足、揺るがない声、包み込むような存在感。
私にとって桜木さんは、舞台人としても、人としても
憧れそのものだった。
桜木みなと
桜木みなと
次、ここの動線もう一度確認しようか。
階段を降りようとした瞬間、彼女の足元の照明コードが少し緩んだ。
(なまえ)
あなた
(危ない。)
そう思った時には、身体が動いていた。
私は桜木さんの腕をつかみ、
後ろに引き寄せるようにして庇った。
そして、
視線がフッと軽くなった。
階段から落ちたのは、私自身だった。
石のような衝撃が後頭部に響き、
そのまま意識が薄れていく。
聞こえてくるのは、誰かの叫び声。
桜木みなと
桜木みなと
ーー!大丈夫?しっかりして……!
最後に聞いたのは、桜木さんの震えた声だった。
サイレンが遠くから近づいては離れていく。
その間ずっと、桜木みなとはあなたの下の名前の手を握っていた。
桜木みなと
桜木みなと
なんで……どうして私なんかを庇って……。
お願いだから、目を開けて……。
スタッフに「同乗は出来ません」と言われても、
桜木みなとは入り口に手をかけ、あなたの下の名前の姿が見えなくなるまで離れなかった。
その後も待合室で何時間も動かず、医師の説明が終わるたびに息を吐き、何度も何度も「無事でよかった」と呟いたという。
病院の天井がぼんやり見えたころ、視界はまだ霞んでいた。
けれどその中で、私の名前を呼ぶ低く柔らかな声だけは、
はっきり聞こえた。
桜木みなと
桜木みなと
……起きた?
ベッドの横には桜木さんがいた。
疲れ切った顔で、それでもやっと安心したように微笑んだ。
桜木みなと
桜木みなと
良かった……本当に良かった……。
私は喉の奥に力を入れ、かすれた声で問いかける。
(なまえ)
あなた
……桜木さん……どうして……そんなに……。
彼女は深呼吸し、少し怒ったように眉を寄せた。
桜木みなと
桜木みなと
こっちのセリフだよ。なんで庇ったの?
危ないでしょ。
私は一瞬視線を逸らし、正直に答えた。
(なまえ)
あなた
……桜木さんは……組にとって必要な方なんです。私なんかより、もっと守られるべき人で……だから。
その言葉を聞いた瞬間、彼女の表情が変わった。
怒りと、それ以上に胸を締め付けられたような
痛みが混ざった顔。
桜木みなと
桜木みなと
……そんなこと言うんじゃない。
少し震えた声だった。
桜木みなと
桜木みなと
自分をそんなふうに扱わないで。
危なかったんだよ?
私は……感謝してるけど、それとこれとは別。
そう言いながらも、彼女はそっと私の手に触れた。
桜木みなと
桜木みなと
ありがとう。でも……もう無茶はしないでね。
退院して稽古場に戻った私に、変化があらわれたのは
その日からだった。
桜木さんは、以前より少し距離が近い。
稽古場ですれ違えば「体調どう?」「無理してない?」
と必ず声をかけてくれる。
重い荷物を持てば「あ、私が持つよ」とさりげなく手を伸ばす。
組子達は面白そうにヒソヒソ囁いていたが、
私はその理由を言い当てられずにいた。
ある日、稽古終わり。
彼女は私を呼び止めた。
桜木みなと
桜木みなと
今日も無理しなかった?
(なまえ)
あなた
はい。大丈夫です。
すると桜木さんは少し言いにくそうに言葉を探し、
私を見つめた。
桜木みなと
桜木みなと
……あの日のこと、ずっと考えてる。
あなたの下の名前みたいに、周りのことばかり
考える人……放っておけるわけない。
その声音は淡く温かく、いつもの舞台上の鋭さとは違った。
桜木みなと
桜木みなと
私のことを必要な人なんて言ってくれたけどさ……私から見たら、あなたの下の名前も同じくらい、いや、それ以上に大事なの。だからこれからは……ちゃんと、自分のことも大切にしてほしい。
胸が熱くなる。
息がうまく吸えないほどだった。
(なまえ)
あなた
……ありがとうございます。
すると彼女は少し照れたように笑い、軽く頭を撫でた。
桜木みなと
桜木みなと
お礼は、これから元気に隣にいることで返して。そのほうが私は、ずっと嬉しい。
私の頬が熱くなったのを見て、桜木さんは少しだけ
視線を逸らす。
稽古場を出る私の背中を、彼女は最後まで見送っていた。
あの日から、桜木みなとはあなたの下の名前を気にかけてくれるようになった。それはただの先輩後輩を超えて、少しずつ形を帯び始めていた。
その気配に気づいているのは……まだ、
桜木みなととあなたの下の名前だけだった。

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