稽古場の空気はいつだって独特だ。
ピアノの音、ストレッチする音、譜面をめくる小さな紙の音、全てが舞台へ向かう高揚を積み重ねていく。
その日、私は舞台に向けてひたすら振り付けを反復していた。ふと視線を見上げれば、階段の上から組子に指示を出す
桜木さんが見える。
長い手足、揺るがない声、包み込むような存在感。
私にとって桜木さんは、舞台人としても、人としても
憧れそのものだった。
階段を降りようとした瞬間、彼女の足元の照明コードが少し緩んだ。
そう思った時には、身体が動いていた。
私は桜木さんの腕をつかみ、
後ろに引き寄せるようにして庇った。
そして、
視線がフッと軽くなった。
階段から落ちたのは、私自身だった。
石のような衝撃が後頭部に響き、
そのまま意識が薄れていく。
聞こえてくるのは、誰かの叫び声。
最後に聞いたのは、桜木さんの震えた声だった。
サイレンが遠くから近づいては離れていく。
その間ずっと、桜木みなとはあなたの下の名前の手を握っていた。
スタッフに「同乗は出来ません」と言われても、
桜木みなとは入り口に手をかけ、あなたの下の名前の姿が見えなくなるまで離れなかった。
その後も待合室で何時間も動かず、医師の説明が終わるたびに息を吐き、何度も何度も「無事でよかった」と呟いたという。
病院の天井がぼんやり見えたころ、視界はまだ霞んでいた。
けれどその中で、私の名前を呼ぶ低く柔らかな声だけは、
はっきり聞こえた。
ベッドの横には桜木さんがいた。
疲れ切った顔で、それでもやっと安心したように微笑んだ。
私は喉の奥に力を入れ、かすれた声で問いかける。
彼女は深呼吸し、少し怒ったように眉を寄せた。
私は一瞬視線を逸らし、正直に答えた。
その言葉を聞いた瞬間、彼女の表情が変わった。
怒りと、それ以上に胸を締め付けられたような
痛みが混ざった顔。
少し震えた声だった。
そう言いながらも、彼女はそっと私の手に触れた。
退院して稽古場に戻った私に、変化があらわれたのは
その日からだった。
桜木さんは、以前より少し距離が近い。
稽古場ですれ違えば「体調どう?」「無理してない?」
と必ず声をかけてくれる。
重い荷物を持てば「あ、私が持つよ」とさりげなく手を伸ばす。
組子達は面白そうにヒソヒソ囁いていたが、
私はその理由を言い当てられずにいた。
ある日、稽古終わり。
彼女は私を呼び止めた。
すると桜木さんは少し言いにくそうに言葉を探し、
私を見つめた。
その声音は淡く温かく、いつもの舞台上の鋭さとは違った。
胸が熱くなる。
息がうまく吸えないほどだった。
すると彼女は少し照れたように笑い、軽く頭を撫でた。
私の頬が熱くなったのを見て、桜木さんは少しだけ
視線を逸らす。
稽古場を出る私の背中を、彼女は最後まで見送っていた。
あの日から、桜木みなとはあなたの下の名前を気にかけてくれるようになった。それはただの先輩後輩を超えて、少しずつ形を帯び始めていた。
その気配に気づいているのは……まだ、
桜木みなととあなたの下の名前だけだった。













編集部コメント
依頼人の悩みや不安に向き合うカウンセラーという立場の主人公が見せる慈愛にも似た優しい共感と、その裏にひそむほの暗い闇。いわゆる正義ではないものの、譲れない己の信念のために動く彼の姿は一本筋が通っていて、抗いがたい魅力がありました!