目を覚ます。
世にも奇妙な悪夢を見ていた気がする。
ただ、何か恐ろしいものに取り込まれそうになったような、いや、自分が取り込んだような。
え、誰? よく見てみれば、そこは全く知らない部屋だった。
状況がわからず、きょろきょろと辺りを見渡す。医務室、だろうか。日本にいたときはよく怪我をして保健室送りになったものだが、高校生になって韓国にやって来てきてからはとんと行かなくなった。この医務室特有の匂いは久しぶりだ。
いや、そうじゃなくて! なんで俺は今見知らぬ医務室に居るんだ!
悠太は勢いよくベッドから飛び上がろうとしたが、先程挨拶してきた男に止められた。
そう言って、目の前の男性は隣の椅子に腰を掛けて話し始めた。彼の名前はクンといい、どうやら自分はその医務室に運ばれて彼に治療を受けたらしい。
あの後すぐに応援が駆け付けてくれたおかげで悠太は事なきを得たのだが、彼は意識を失ったまま3日ほど眠り続けていたそうだ。そして、今が4日目らしい。
彼によると、あの日取り込んだ怪異は未だ悠太の中に留まり続けているようで、この3日間は一度も顕現していないそうだ。
俺、一生それを取り込んだまま?と問えば、クンは微妙な表情を浮かべながらそれはまだわからないな、と言った。
それから、悠太はあの日、朝起きてからの出来事を事細かに話した。だがそれすらも曖昧で、自身も話しながら意味がわからず、傍から聞いたらすっとこどっこいな話だな、と半ば説明を諦めてしまった。
しかし彼はそれを笑い飛ばすことなく真剣に聞いてくれたのだった。そして、悠太が話し終わると今度は自分が話す番だと言って口を開いた。
まず、自分は"呪術師"であるということ。そしてあの化け物は"呪い"で、人を殺すこともあること。そして、ここは呪術高専という学校の医務室であること。
正直言うと、今までのすべての話を信じられないし信じたくもない。こんなアクション漫画の王道のような始まりが、現実にも起きるとはにわかに信じ難い。でも実際に自分はそれを体験しているのだ。これは趣味の悪い冗談でも、奇妙な悪夢でもない。
――ああ、俺はもう"そっち側"の人間なんだ。
悠太はそう悟った。
クンは、なんてことの無いようにそう答えた。まるでそれが当然であるかのように。いや、当たり前なのか。これは完全に脅迫だ。生きるか死ぬか、究極の選択肢がふたつ。
ずるいよなあ、選択肢が無いなんてさ。呪霊なんたらとかいう結構上澄みらしい能力を持っちゃってて、それでも並みに生きてきたそこらの普通の高校生に生死の選択なんて。答えなんて決まってる。だがしかし、生きる、という選択をしたところで、あのおぞましい"呪い"とやらを祓うことは決して安全ではないだろう。実際に、あの取り込んだ呪いがいなければあのまま死んでいた。生きるか死ぬか、その『生きる』も限りなく死に近い生だ。生き地獄、なんて言葉があるがまさに今この状況を言うのだろう。彼の話をすべて聞いて尚、自分に平穏無事という選択肢があるとは到底思えなかった。
クンは悠太が黙り込んだのをじっと眺めると、俯いてしまったその頭をぽふぽふと撫でた。
顔を上げて、と言った声は思っていたよりも柔らかくて優しい響きだった。恐る恐る顔を上げれば、彼はにっこりと笑った。その顔はやはり優しそうで柔らかいもので、この人が呪術師という命を懸けた職業に就いている想像がつかない。この人もあの醜い呪いと戦うのだろうか。
その言葉に、思わず息を詰まらせた。てっきり断れば即死刑になるのかと思っていたものだから、その言葉があまりにも予想と違っていて驚くばかりだ。
そんな悠太の顔を見てか、クンは更にこう続けた。
別に今すぐに答えを出せとは言わないよ、と。ただし、もう危険な目に遭うことは決まっているのだからせめて訓練を積まないとね、とも。
逃げる、という選択肢もできた。どちらかと言えば、クンはその選択肢を悠太に選ばせたいのだと理解する。先程の二つの選択肢は呪術師として、もうひとつの選択肢はきっと"人"として。
ああ、本当に人生ってのは何が起こるかわからない。本当に。
あっさりとした返答に、今度はクンの方が驚く番だった。先程の脅すような流れとは違い、こんなにも簡単に決断が下されるとは思わなかったのだ。それに、この選択をするということはすなわち呪いと戦うという道を選んだということ。
クンは考える。
呪術師は人手不足で常に人員を求めているから、彼が高専に入学することは容易いだろう。しかし彼はまだ呪術も未経験の未成年。この年で自分の命を懸けてまで戦おうと思うのだろうか?と疑問が浮かぶ。最近まで呪いの類など一切見てこなかった、いわゆる一般人。そんな子供である彼に、あのおぞましい存在と戦う覚悟があるのだろうか。
自身のエゴに彼を巻き込むことに罪悪感はあるものの、彼にもある程度は覚悟を決めてもらわねば話が進まない。呪術師は確かに人手不足だし、戦力が増えるのは願ってもないことであるのだが。
そこまで考えて改めて悠太の顔を見ると、彼はあまりにもあっけらかんとした顔をしていた。まるで、今日の晩御飯を何かなという時のような気軽さである。先程まで死刑の一言に喉を詰まらせていたはずなのに。そのあまりの変わり身の早さに思わず笑いが漏れた。
一体何が彼をそうさせるのか、その答えを知りたいと思った。
すると悠太はうーんと唸りながら考え込み始めたので、これは長考コースかなと思い、彼の気が済むまで待ってやることにする。
しかし、彼が瞬間に出した答えはあまりにも単純で明快なものだったのだった。
そう言ってへらりと笑った彼は、本当に"普通"だった。
いざという時、ちゃんと逃げる勇気が無いんで、と悠太はへにゃりと笑う。めちゃくちゃ強くなって、それでも逃げたいと思ったら逃げます、と言う悠太にクンは呆気にとられる。
皆、いつだって自分の身が一番可愛いのだ。当たり前だ、人間なのだから。未成年ならなおさら。それで良いと思うしそれを咎める気はさらさら無いのだが。悠太は違った。
クンは又しても驚く。目の前の青年があまりにも真っ直ぐな目をしていたから。彼の目は恐怖で濁りきっているのではなく、何か覚悟を決めた瞳であったのだ。彼は自身の恐怖心も葛藤も全部呑み込んで前に進もうとしているのだと悟り、自分の方が間違っているような気がしてくる。
ただやはりまだ学生で、子供だ。何もかも未経験の彼が呪術師として生きていくのは、やはり簡単な道ではない。死と隣り合わせの毎日が一生付き纏う。その覚悟が彼にあるのだろうか。
君は、それを覚悟できる?
クンは真っ直ぐに見つめた。これは揺さぶりをかけるためではない。自分の選んだ決断を胸に留めされるためだ。
なんの確証もないけど、と悠太は笑った。
本当にそうだ、口で言うには何ともなる。かつての自分もそうだったように。だが、彼のこの目を見て何も感じぬほどクンは無情ではなかった。彼はきっと強くなるだろう、と直感的にそう思ったのだ。
だからクンは、彼に手を差し出す。悠太はその手の意味を理解できず首を傾げるばかりである。そんな様子にまた笑いが込み上げてくるが、それを堪えて口を開いた。
そう言って微笑むクンの顔は、悠太が今日見た中で一番優しかった。
でも、とクンは続けた。
自分のせいでなくとも、まだ子供である彼を呪術師の世界に引きずり込んでしまうことへの罪悪感がないわけでは無かった。
それでも、この選択をしたのは彼自身なのだ。ならば自分はそれを尊重し、彼の意志を尊重すべきだろうと思うのだ。
期待されたのだ、と気付く。だから悠太はその手に自分の手を重ね、同じく力強く握り返したのだった。
中本悠太
年齢: 18歳(高校3年生)
術式: 呪霊操術
等級: 不明
チェン・クン
年齢: 27歳
術式: 反転術式
等級: なし
(実験公開中)














編集部コメント
依頼人の悩みや不安に向き合うカウンセラーという立場の主人公が見せる慈愛にも似た優しい共感と、その裏にひそむほの暗い闇。いわゆる正義ではないものの、譲れない己の信念のために動く彼の姿は一本筋が通っていて、抗いがたい魅力がありました!