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「アイエン、相談がある」
そう言われた瞬間、嫌な予感がした。
あなたさんが自分から相談を持ち掛けてくること自体、かなり珍しい。
それも、ヒョンが席を外している隙を狙うように、そっと僕に近づいてきたのだから尚更だった。
ヒョンは今、部屋の外で医者の検診を受けている。
定期検査だ。
傷は殆ど塞がったとはいえ、まだ完全ではない。
本人は平気だと言い張るので、こうして強制的に医者を派遣して今に至る。
その、ほんの僅かな時間。
あなたさんは両手でカードを握りしめて、僕に近寄ってきた。
逃げるなら、せめて水を買え。
何か食べて、タクシーに乗って、ホテルに泊まれと。
そう言って渡した、あのカード。
それを今は、まるで爆弾でも持つみたいに、大事に抱えていた。
「どうしました」
警戒をできるだけ悟られないように、聞いた。
逃げたいと言われたら、どうする。
死にたいと言われたら、どうする。
ヒョンには言えない何かを抱えていたら、どうする。
そういう最悪を一瞬で考えると、あなたさんはしばらく黙ったあと、ひどく真剣な顔で言った。
「リクスに、何か送りたい」
逃げたいという相談なら、監視を増やさないといけない。
泊まる可能性のあるホテルを頭でピックアップした矢先。
聞こえてきた言葉に、思わず思考が止まった。
「……はい?」
「いつも、もらってばかりだから」
「……」
「服も、お菓子も、リクスは私にたくさんくれる」
「まぁそうですね」
「だから、私もリクスに何か買いたい」
そこまでは、いい。
むしろ、かなり良いと思った。
逃亡でも、死にたい訳でもなく、ただのプレゼントの相談であれば、ここ最近では随分平和な部類に入る。
だけど、あなたさんの顔はまだ深刻だった。
「でも」
「でも?」
「買えない」
「お金なら、そのカードを使ってください」
「違う」
「何が違うんですか」
彼女がカードを使った履歴は、あのキャンディ以外ない。
限度額を超えるようなものを買いたいのだろうかと言葉を待つと、あなたさんはカードをさらに強く握った。
「隣に、リクスがいる」
「……いますね」
「いつもいる」
「いますね」
「買うのが、分かる」
そこまで聞いて、僕はあぁ、と小さく息を吐いた。
ようやく、相談の形が見えた。
「つまり、ヒョンに知られずにプレゼントを買いたいと」
「……リクスは、いつも知らないうちに買ってくる」
「まぁ、あの人はそういうことが得意ですから」
「服も、欲しいって言ってないのにある」
「そうですね」
「紅茶も、お菓子も、私が好きって思ったら次の日に増えてる」
「そうですね」
「あれ、どうして?」
「それは、僕も少し怖いです」
正直に答えると、あなたさんはさらに困った顔をした。
だけど、分からないものは分からない。
ヒョンは、あなたさんが直接好きだと言ったものだけを拾っているわけではない。
飲んだ紅茶が美味しくて目尻を緩めた。
ただそれだけで、次の日には同じ茶葉が手配されている。
少し手を見つめれば、次の日にはハンドクリームが数種類手配されている。
正直、僕だって怖い。
「……リクスは、私に知られずに買えるのに」
「はい」
「私は、リクスに知られずに買えない」
「……」
「どうしたらいい?」
思わず、頭を抱えそうになった。
本当に、なんて相談だ。
ヒョンの恋人から、内緒でプレゼントを買いたいと相談されている。
しかも問題は、ヒョンの監視や執着や察知能力をどうすり抜けるか、という話だ。
平和なのか。
物騒なのか。
もう分からない。
「まず、前提として。ヒョンの目をすり抜けるのは、ほぼ不可能です」
あなたさんの顔が曇った。
日頃表情がまだうまく出せない彼女が、それでも見て分かるぐらいに。
それを見て、僕はまた慌てて口を開いた
「責めているわけではありません。事実です」
「プレゼント」
「分かっています」
「買いたい、だけ」
「分かっています」
「逃げない」
「分かっています」
だから余計に厄介なのだ。
逃げるなら捕まえればいい。
危ないなら止めればいい。
死にたいと思うようなことがあれば、ヒョンに連絡をすればいい。
けれど、これはプレゼントだ。
止める理由がない。
むしろ、協力した方がいい。
問題は、相手がヒョンだということだけだった。
「ヒョンは、あなたさんが何か隠そうとした時点で気づきます」
「……うん」
「視線、呼吸、歩幅、手の動き。全部見ています」
「うん」
「あなたさんがカードを使ったら履歴で気づきます」
「……」
「現金で買っても、持ち物が増えたら気づきます」
「……」
「通販なら、配送で気づきます」
「……」
「部屋に隠しても、たぶん気づきます」
「……リクス、怖い」
「はい」
即答するしかなかった。
そこは否定できなかった。
ヒョンは怖い。
敵に対してだけではない。
あなたさんに対する理解と執着の精度が、時々こちらでも引くほど怖い。
あなたさんが何を怖がるか。
何で安心するか。
何を隠そうとしているか。
恐ろしいほど分かっている。
それは、あなたさんを生かすために必要だったことでもある。
けれど、プレゼントを隠すには最悪の相手だった。
「じゃあ、無理?」
あなたさんの声が少しだけ沈む。
僕はその声に、また頭を抱えたくなった。
やめてほしい。
そんなふうに落ち込まれると、こちらが悪いことをしているみたいになる。
いや、実際には何もしていない。
ただ、ヒョンに内緒で買い物をする難易度が高すぎるだけだ。
「……方法がないわけではありません」
あなたさんがぱっと顔を上げた。
その目に、かすかな期待が宿っているのが目に見て分かる。
僕は深くため息を吐いた。
もうこの時点で、かなり絆されている。
昔なら、こんな面倒な話は切っていた。
プレゼントなど勝手にすればいい。
できないなら諦めろ、ヒョンに直接言えばいい。
そう言って終わらせていた。
けれど、今は違う。
あなたさんが自分から何かを渡したいと思った。
もらってばかりではなく、返したいと思った。
その変化を、無下にはもうできない。
「……次のお茶会の時です」
「お茶会」
「はい」
「いつもの?」
「はい」
僕は頭の中で手順を組み立てるしかなかった。
ヒョンをあなたさんと一定時間離すには、普通の理由では無理だ。
ただ席を外してくれと言っても、あの人は外さない。
ーーだが、CB97に呼び出されれば別だ。
組織の話。
ナンバーツーとしての確認。
あるいは、政治家の残党処理の報告。
その理由なら、ヒョンを短時間だけあなたさんから離せる……かもしれない。
「お茶会の途中で、CB97にヒョンを呼び出してもらいます」
「うん」
「その間に、パソコンを使って買ってください」
「パソコン」
「僕が手配します。決済もこちらで処理します。履歴はヒョンにいかないようにします」
「すごい」
「すごくはないです」
「アイエン、すごい」
「やめてください」
あなたさんが、感心したように僕を見る。
妙にまっすぐ褒められると、かえって困るから、その視線を受けないように視線を逸らした。
「ただし、問題があります」
「なに?」
「CB97にも話を通す必要があります」
「CB97に?」
「はい」
「プレゼントを買いたいって?」
「そうです」
あなたさんはしばらく考えていた。
知らない言葉を考えているのか、頭の中でゆっくりとたどり着いた言葉を、小さく首を傾げて僕に尋ねた。
「面通し?」
「違います」
僕は即答した。
けれどすぐに少し考えて、語弊があると訂正に口を開いた。
「……いや、ある意味では面通しですね」
「プレゼントの面通し」
「言わないでください。余計に面倒に聞こえます」
実際、面倒だった。
ヒョンに内緒でプレゼントを買うために、CB97を巻き込み、茶会の進行を調整し、別室とパソコンを用意し、決済履歴と配送先を管理し、リクスに悟られないようにする。
ーーどこの潜入作戦だ。
ただのプレゼントなのに。
「……面倒ですね」
思わず僕の口から本音が零れた。
舌打ちをしなかっただけ堪えたと思ったが、そんな僕にあなたさんがびくりと肩を強張らせた。
「ごめんなさい」
「謝らないでください」
彼女を責めているのではないと、すぐにヒョンのように謝罪を取り上げる。
その反応が僕自身も早すぎて、自分でも嫌になった。
もう完全に絆されている。
「面倒なのは事実です。でも、やらないとは言っていません」
「アイエン、やってくれる?」
もう、深いため息を吐くしかなかった。
ここで断れるなら、とっくに断っている。
ヒョンが命を削ってあなたさんを追いかけるのも見た。
あなたさんがリクスの血を抱えて震えるのも見た。
二人が約束でしか生きられなかった夜も見た。
その後で、ようやくあなたさんが”何かをあげたい”と言っている。
それを、面倒だからと切るほど、自分はもう冷たくいられなかった。
「買うのは、次のお茶会の時です」
やるしかない。
やるしかないんだと、自分に言い聞かせた。
「CB97には僕から話します」
「うん」
「買うものは、事前にある程度考えておいてください」
「何がいいかな」
「それは自分で考えてください」
「リクス、何が好き?」
「あなたさんです」
「……」
あなたさんが固まった。
流れ作業のように言葉を紡いだが、自分の発言に気づいてから、また頭を抱えたくなった。
違う。
そういう意味ではない。
いや、そういう意味でもある。
「今のは忘れてください」
「リクス、私が好き?」
「知ってるでしょう」
「……うん」
「では確認しないでください」
あなたさんは少しだけ俯いた。
けれど、その耳が赤い。
以前なら、こういう話題になると困惑して、怯えに近い顔をしていた。
今は違う。
恥ずかしそうにする。
それがまた、面倒なくらい平和で、出そうな溜息は飲み込むしかなかった。
「物としては、マグカップでも、カフスでも、ペンでも、手袋でもいいと思います」
「手袋」
「はい」
「リクスの手、好き」
「本人の前で言ってあげてください」
「言えない」
「なぜ」
「見ると、胸がどきどきする」
もう一度頭を抱えた。
本当に、なんて相談だ。
プレゼント作戦の途中で、惚気を聞かされている。
しかも本人に自覚が薄いから、余計にたちが悪い。
「……とにかく」
僕は無理やり話を戻した。
ここであなたさんの話をこれ以上聞いてしまえば、僕がまた後でヒョンから責められる。
悪気がない彼女の言葉を、どう避けるのか。
それが最近の悩みの種でもあった。
「次のお茶会です」
「うん」
「それまでは、ヒョンに悟られないように普通にしてください」
「普通」
「はい」
「普通って、どうするの?」
「……」
難しい質問だった。
ヒョンに何かを隠しているあなたさんが、普通に振る舞える気がしない。
そして、ヒョンはたぶんその違和感を一瞬で拾う。
作戦開始前から失敗の気配が濃い。
「できるだけ、いつも通りに」
「いつも通り」
「ヒョンを見すぎない」
「でも、見ないといなくなるのが怖い」
「分かっていますが、見すぎない」
「いつも目が合う」
「それはヒョンもあなたさんを見ているからです」
「……見てくれてる」
「そこで赤くならない」
「無理」
「……でしょうね」
もう諦めるしかなかった。
これはもう、完全に隠しきるのは無理だ。
なら、方針を変えるしかない。
「多少は怪しまれてもいいです」
「いいの?」
「はい。ヒョンは、あなたさんが照れているだけだと思う可能性があります」
「照れてる」
「実際そうでしょう」
「うん」
「なら、それで押し通してください」
「押し通す」
「はい」
あなたさんは僕の言葉に真剣に頷いた。
こんな言葉を真面目に受け止めるあたり、やはり放っておけない。
僕は小さく息を吐き、カードを指差した。
「それは、今はしまっておいてください」
「使わない?」
「次のお茶会で使います」
「逃げるためのカードなのに」
「今回は、逃げずに買うためのカードです」
あなたさんはカードを見下ろした。
逃げるために渡されたもの。
水を買うため。
食べ物を買うため。
タクシーに乗るため。
死なないため。
たまに、キャンディを買うため。
そのカードを、今度はヒョンへのプレゼントを買うため、が加わった。
それは、きっと悪くないと無理矢理結論づけた。
「アイエン」
「はい」
「ありがとう」
「まだ何もしていません」
「でも、ありがとう」
返事に困った。
こういう素直な感謝は苦手だ。
ヒョンの言葉の駆け引きより、よほど扱いづらい。
でも、あなたさんはこうして言葉を紡ぐことが増えたから……慣れないといけない。
「……次のお茶会の時です」
結局、同じことを繰り返した。
あなたさんは目元を少し緩めて嬉しそうに頷いた。
その顔を見て、またため息を吐く。
面倒だ。
本当に、面倒だ。
CB97にも話を通さなければならない。
お茶会の席でヒョンを自然に引き剥がす理由も作らなければならない。
パソコンも、購入履歴も、配送先も、梱包の受け取りも、全部管理しなければならない。
ただのプレゼントに、どれだけ人員を割くつもりなのか。
けれど。
あなたさんがカードを大事そうに抱え、ほんの少しだけ笑っている。
それを見てしまえば、もう断れなかった。
ヒョンの異常な執着にも。
あなたさんの不器用な生き方にも。
死なない約束を、少しずつ日常の約束に変えていく二人にも。
「……本当に面倒な人たちですね」
「私?」
「あなたとヒョンです」
「リクスも?」
「ヒョンが一番面倒です」
あなたさんは少し考えて、それから小さく頷いた。
本人も否定しないあたり、最近はよく分かっているらしい。
もっとも、それで困るのをやめるわけではないのだが。
「でも、私はリクスが好き」
「知っています」
「だからプレゼント、あげたい」
「分かっています」
「内緒で」
「それが一番面倒なんです」
そう言いながらも、次の茶会の段取りを考え始めていた。
CB97へどう説明するか。
ヒョンを何分引き離せるか。
あなたが慌てず選べるように、候補をいくつか準備しておくべきか。
完全に作戦だった。
逃亡阻止でも、護衛任務でも、暗殺対策でもない。
ヒョンに内緒でプレゼントを買う作戦。
僕は深くため息を吐いた。
「次のお茶会の時です」
もう一度そう言うと、あなたさんは大事そうにカードを胸へ抱いた。
その仕草が、逃げるために血を抱えていた夜とはまるで違って見えた。
今は、逃げるためではない。
渡すために、抱えている。
それが分かったから、何も言えなくなった。
廊下の向こうから、ヒョンの足音が近づいてくる。
あなたさんがぱっと顔を上げた。
親猫を見つけた子猫みたいに、目がそちらへ向く。
そしてすぐ、何かを隠していることを思い出したように、カードを背中へ回した。
「嘘でしょう……」
頭が痛くなった。
下手すぎる。
その動きで、絶対に気づかれる。
案の定、扉が開いてすぐ、ヒョンの目が細くなった。
「何してたの?」
柔らかい声だった。
けれど、完全に気づいている声でもあった。
あなたさんは一瞬固まり、それから小さく答えた。
「普通」
ヒョンの視線を受ける前に、僕は天井を見た。
作戦は、始まる前から難航している。
それでも、やるしかない。
ヒョンに内緒で、ヒョンへ贈り物をする。
たぶんこの組織で、政治家を潰すより神経を使う作戦が始まろうとしていた。












編集部コメント
依頼人の悩みや不安に向き合うカウンセラーという立場の主人公が見せる慈愛にも似た優しい共感と、その裏にひそむほの暗い闇。いわゆる正義ではないものの、譲れない己の信念のために動く彼の姿は一本筋が通っていて、抗いがたい魅力がありました!