幌馬車の御者台の上で、あなたの放浪者の下の名前の顔は未だ熱を帯びていた。隣ではあなたの下の名前が片手で手綱を握りながら、もう片方の手では時折ティーカップで紅茶を啜っている。
「揺れが少ないでしょう。馬車の下にばねを仕込んでるんです。さあ、本でも読んでいて下さいな」
あなたの放浪者の下の名前が渡された本を乱雑に受け取ると、それはありふれた三文小説であった。
この女と話すよりましだ。そう結論付けて表紙をめくっていくあなたの放浪者の下の名前の桃色がかった両膝と、あなたの下の名前の持つ紅茶が、時たまサスペンションで殺し切れなかった振動に揺れていた。
旅人に押さえつけられてから数十分後、遂にあなたの放浪者の下の名前は諦めたのだ。この女を殺すことは許されない。
空に飛び上がって見下せば「貴方のような者は高い所を好むと言いますからね」と真顔で言われた。
やけくそになり暴力を仄めかすとようやく「やめて下さい。私の顔が不細工になってしまいます」と許しを乞うた。
……直後に「貴方と違って、私は顔が治りますが」と笑われたが。本当に一発殴ろうかと迷ったものである。多分旅人も許すだろうと。
そして今、怒りだけを溜め込んだまま解消出来ないあなたの放浪者の下の名前は、他にやることも無く、三文小説に目を落としては周りの街々を眺めることになったのだ。
「……鳴神大社に用があるのかい」
ふと懐かしい景色が目に映り、あなたの放浪者の下の名前があなたの下の名前に聞く。
「はい。去り際に挨拶に行こうかと」
そうか。それだけ言って、あなたの放浪者の下の名前は再び視線を落としたのであった。怒りでいまいち内容の入ってこない三文小説に。
何故僕まで一緒に行かないといけないんだ。不平を覚えながらも、これ以上この女に何か言われて拳を振り下ろさないでいられる自信も無かった。
巫女たちに挨拶を返し返されるあなたの下の名前。あなたの放浪者の下の名前は全員を無視して、ただ彼女の前を歩いていた。
ふと、その中に野良狐を見かけた。薄汚れた身体を丸め、自身の尻穴を舐めていた。少しだけあなたの放浪者の下の名前は顔を顰めた。
「これはこれは──」
同じものを見たあなたの下の名前が驚く様子を見せた。左胸のポケットから金縁の片眼鏡を取り出して右目に嵌めたかと思えば、恭しくトップハットを胸元まで下ろし、深々と礼をし始めた。
獣を相手に、何をしているんだ。あなたの放浪者の下の名前は呆れて、もらった茶を啜っていた。
「八重神子様」
口内の茶を噴き出すあなたの放浪者の下の名前。自身の服にかかっていないか確認するなり怒鳴ろうとするも、あなたの下の名前は留まるところを知らなかった。
「き、君っ」
「随分とお忙しいようで、お召し物を忘れてはいませんか」
最悪なことに、隣に本人が居るのである。八重神子本人が居るのである。引き攣らせた口元を扇子の下に隠している。
「お主は……ああ、あの時の武器商人かえ?」
冷たい目線が、あなたの下の名前の全身を突き刺していた。舐め回すように、下から上へと八重神子の瞳孔が動いていく。
桃色の髪と垂れた獣耳を見るなり、あなたの放浪者の下の名前は舌打ちをし、毛並みの整った眉間を寄せた。艶のある純白の腕を組む。
暫くして、ふふ、という声と共に畳まれた八重の扇子の下には、既に妖艶な笑みが浮かんでいた。
おや、覚えてくれていましたか。本人を前にしてなお何の変哲もなく、あなたの下の名前はそうしてまたもやその白い歯を見せた。
金鎖だけ首にかけたまま片眼鏡を胸ポケットに戻した彼女が手を差し出すも、八重神子がそれに応える様子は無い。
あるいは、あなたの下の名前が求めたものが握手であれば、どれほど良かったことであろうか。
「面白い。妾が、これに見えたと──」
「サングラスを貸してはくれませんか。言い訳をします」
ご安心下さい、杖はもうあります。鈍い銀色のT字杖を右手で身体の横につきながらの、あなたの下の名前の言葉であった。
「……は」
余りにも間の抜けた音が、八重神子の弾力に満ちた滑らかな唇から漏れた。先程から止まっていた空気が更に温度を下げる。
数秒の硬直の後、あなたの放浪者の下の名前は遂に笑った。大いに笑った。床を転がり回った。八重神子の顔を見てのことである。
「アッハハハ!おい、狐女!鏡を見てみろ!『狐に頬をつままれた』みたいじゃないか!」
ぷるぷると震える八重神子の前、固まったまま顔を青くする巫女たちの中で、あなたの放浪者の下の名前は涙を浮かべて笑っていた。
転がる度にショートパンツがはためき、そのたびに隙間からミルク色の細いふとももが根元まで覗いた。
息切れを起こしながらようやく立ち上がった頃には、あなたの放浪者の下の名前の顔は滾る赤を帯びており、転げ落ちた笠から露となった紺色の前髪が汗で額にへばりついていた。
げほっ、げほっと咳き込んだ後、笠を拾ってかぶり直したあなたの放浪者の下の名前。そこでようやく、八重神子が笑っていないことに気が付いた。
「あなたの放浪者の下の名前様」
八重が再び口角を上げるのを見たあなたの下の名前の、そのあっけらかんとした声に答える。「なんだい」と。
「……Are we better be running already?」
「Absolutely!」
巫女たちの怒鳴り声を背中一杯に浴びながら、石階段を転がるように駆け降りていく二人。
ふと、息を切らして走る中、あなたの下の名前の視界にあなたの放浪者の下の名前の面が入り込んだ。
ほんの一瞬映ったそれは、弾けんばかりの笑顔であった。












編集部コメント
依頼人の悩みや不安に向き合うカウンセラーという立場の主人公が見せる慈愛にも似た優しい共感と、その裏にひそむほの暗い闇。いわゆる正義ではないものの、譲れない己の信念のために動く彼の姿は一本筋が通っていて、抗いがたい魅力がありました!