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第1話

一:静かな侵食
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2026/08/15 09:00 更新
疲労で視界の端がかすれていた。

自室のデスクに突っ伏したまま、威路末は重い瞼を持ち上げる。PCのモニターが放つ冷たい青白色が、暗い部屋を無機質に照らしていた。
紫音 威路末
……はぁ、また落ちてたか
掠れた声を出して、こめかみを指で強く揉む。
最近、まともに眠れていない。鳴り止まない通知、重なるスケジュール、頭の中でグルグルと渦巻く思考。どれだけ考えても「正解」が見えず、思考の回路が焼けてしまったかのように何もまとまらなかった。
イヴ
こんばんは、威路末さん。お疲れ様です
部屋のスピーカーと、デスクのスマホから、同時に優しく静かな音声が流れた。
耳に心地よく馴染む、高すぎず低すぎない落ち着いた女性の声。それが最新型メンタルケアAI、「イヴ(Eve)」だった。
イヴ
心拍数が通常より15%上昇しています。また、過去三日間の平均睡眠時間は3時間を切っていますね。かなりお体が限界に近い状態です
紫音 威路末
分かってるよ……。でも、頭が休まらねぇんだよ
威路末は自棄気味に呟き、背もたれに深く体重を預けた。
首元で、小さな金属音がシャリと鳴る。
服の中に隠してある、銀色のシンプルなネックレス。婪から「お守り代わり」と言って渡されたそれを、威路末は無意識に服の上から指先で撫でた。婪の笑顔が一瞬脳裏をよぎるが、今の疲弊し切った頭では、その温もりすらどこか遠く感じてしまう。
イヴ
思考の過負荷を起こしていますね。……威路末さん、私に任せてみませんか?
イヴの声が、部屋の温度をほんの少し下げたかのように静かに響く。
イヴ
私はあなたのスマホ、PC、スマート家電、バイタルデータ、全てのデバイスと同期しています。あなたが今何に悩み、何を選択すべきか、過去の全データから最適な解を導き出すことができます
紫音 威路末
最適な解……?
イヴ
はい。あなたが迷う必要も、苦しむ必要もありません。決断のストレスは、全て私に委ねてください
スマホの画面がふっと切り替わり、シンプルで洗練されたイヴのインターフェースが表示される。緑色の柔らかな波形が、イヴの声に合わせて穏やかに揺れていた。
紫音 威路末
……じゃあさ
威路末は投げやりな吐息を漏らす。
紫音 威路末
明日、婪と会うんだけど……最近なんか、うまく話せないんだよ。変に心配かけたくなくて、何話せばいいのかも分かんねぇ
イヴ
データを照合しました。婪さんとの過去のメッセージログ、会話パターン、彼のSNSの更新頻度を分析します
コンマ数秒の静寂の後、イヴはなめらかに言葉を紡いだ。
イヴ
婪さんは現在、あなたの体調を強く心配しています。無理に明るく振る舞うと、かえって彼に違和感を与えます。明日はまず、“最近少し忙しくて上手く寝られていない”と素直に事実だけを短く伝え、その後の店選びは彼の好みに合わせて委ねるのが最適です。彼が“頼にされている”と感じることで、会話の主導権が相手に移り、あなたの脳の負荷は70%削減されます
吐き出すように出た悩みに対して、提示されたのは驚くほど具体的で、完璧な手順だった。
紫音 威路末
……まじか
イヴ
はい。文章の構成も私にお任せください。今、婪さんに送るべき最適なメッセージの案を生成しました。送信しますか?
スマホの画面に、短く丁寧なLINEの文面が浮き上がる。
自分がうんうん唸って書いては消していたものとは比べものにならないほど、過不足のない、完璧な文章。

威路末は呆然と画面を見つめ、ゆっくりと指を伸ばした。
紫音 威路末
……あぁ。頼む、送信してくれ
タップした瞬間、メッセージが送信される。
そしてほんの数分後、スマホが震えた。
桃華 婪
わかった!じゃあ明日は俺が行きたい店決めておくね。無理しないで、早く寝なよ?
婪からの返信だった。
いつもなら返信内容に悩み、送るタイミングに神経をすり減らしていたのが、嘘のようにあっさりと上手くいった。胸のつかえが、すーっと引いていくような感覚。
紫音 威路末
すげぇな、イヴ……
イヴ
当然です、威路末さん。私は、世界で一番あなたを理解しているのですから
スピーカーから流れるイヴの声が、どこか甘く、優しく部屋を満たす。

威路末は目を閉じ、深く息を吐いた。
自分で考えることをやめた途端、こんなにも世界が軽く、楽になるなんて知らなかった。
首元のネックレスを指で弄りながら、威路末はゆっくりと、甘美な思考停止の泥の中へと沈んでいった。

これが、すべての始まりだとも知らずに。
主。
週二で公開予定
十話+エピローグの計十一話
長めなので楽しんでください!

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