体育館のざわめきは、完全には戻らなかった。
さっきまでただの百位だった男が、
殴りもせずに二年を沈めた。
それだけで十分だ。
「……あいつ、前からあんなだったか?」
「いや、見てただけだろ今まで」
「手首握っただけだぞ」
囁きは尾を引く。
当の本人は、
出口の近くで立ち止まり、
ポケットに手を突っ込んだままリングを眺めている。
何も起きていないかのように。
床に座り込んでいた二年は、
仲間に肩を貸されて立ち上がった。
「……っざけんな……」
悔しさで顔を歪める。
だが、
もう一度向かっていく勇気はない。
理由は単純。
“分からない”からだ。
殴られたならまだいい。
技を掛けられたならまだいい。
だが、今のは違う。
何をされたのか分からない。
それが一番、怖い。
観客席の上段。
幹部の一人が、
視線を壁際へ向けたまま言う。
スマートフォンの画面を閉じた。
リング中央では、
次の試合が始まろうとしていた。
司会役の男が叫ぶ。
「次は三年対決だ!
賭けは締め切るぞ!」
歓声。
その流れの中で、
誰かが口にした。
「百位も出ろよ」
笑い声。
「戦績ゼロ卒業しろって」
軽口のはずだった。
だが。
壁際の男が、初めてはっきりと反応した。
一瞬だけ、
視線がリングに向く。
ざわ、と空気が揺れる。
「出ないのか?」
「怖いのかよ」
標準語の煽り。
男は、数秒黙ったまま。
それから、小さく息を吐く。
その温度差に、
逆に空気がざわつく。
普通はキレる。
普通は乗る。
だが、こいつは違う。
リングの試合が始まる。
拳が交差し、
歓声が戻る。
だが、
完全には戻らない。
ちらちらと、
視線は壁際へ向いている。
番付百位以下。
それは本来、
誰も見ない数字。
それが今、
一番気になる存在になりかけている。
男は、
天井を見上げた。
照明の光が、
ピアスに反射する。
ぽつり。
誰にも届かない声。
だが。
観客席の最奥にいる数人だけは、
その口の動きを見逃さなかった。
歓声は戻った。
リングの上では、
別の三年同士が殴り合いを始め、
観客の意識も一応そちらへ向いていく。
一応、だ。
誰もが、
無意識に“壁際”を視界の端に残したまま。
番付百位以下。
なのに、
さっきから空気が落ち着かない。
それが理由だと、
誰も口にはしない。
男は、
出口の横に立ったまま、
ポケットからスマホを取り出した。
画面を見るでもなく、
ただ手の中で弄ぶ。
まるで、
時間を潰しているだけ。
「……なあ」
背後から、
控えめな声が掛かる。
振り向くと、
一年らしい少年が立っていた。
顔色が悪く、
視線が泳いでいる。
「さっきの……」
言いかけて、
言葉を飲み込む。
男は、
少しだけ首を傾げた。
関西訛り。
少年は一瞬だけ怯み、
それから、意を決したように続けた。
「その……
どうやったんですか」
何を、とは言わない。
だが、
何のことかは分かる。
男は、
少し考える素振りをしてから、
肩を竦めた。
「え」
あまりにも、
あっさり。
少年は目を瞬かせる。
「で、でも……」
その一言に、
少年は何も返せなくなった。
事実より、
噂の方が早く広がる。
そして噂は、
勝手に誇張される。
リングでは、
勝負がついていた。
倒れたのは、
さっき男を煽っていた二年の仲間だ。
「あーあ」
「今日、二年ツイてないな」
笑い声。
その中に、
小さな声が混じる。
「……あいつのせいじゃね?」
誰のことかは、
言わなくても分かる。
理由なんて、後付けだ。
誰に聞かせるでもなく、
そう呟く。
出口へ一歩、踏み出す。
その瞬間。
「おい」
背後から、
低い声。
振り返ると、
別の三年が立っていた。
番付は上。
チームもそれなり。
「お前、名前」
男は、
一瞬だけ黙る。
そして。
それだけ言って、
踵を返した。
引き止めない。
追わない。
だが――
周囲の視線が、一斉に動く。
「今は、って」
「じゃあ、いつだよ」
誰かが小さく笑った。
扉が閉まる。
体育館の喧騒が、
一枚の壁で遮断される。
残されたのは、
妙に居心地の悪い沈黙。
「……逃げた?」
誰かが言う。
だが、
誰も強く同意できない。
逃げたにしては、
落ち着きすぎていた。
観客席の最奥。
その中の誰かが、
静かに端末を操作する。
メモが一つ、追加された。
・三年
・番付百位以下
・関西訛り
・接触時、恐怖反応なし
・力の制御が異常に上手い
そして、最後に。
体育館に残された空気は、
時間が経っても元には戻らなかった。
試合は続いている。
殴り合いも、歓声も、
さっきまでと何も変わらない。
それでも、
どこかが噛み合っていない。
視線が散る。
集中が途切れる。
リングに立つ選手ですら、
一瞬だけ出口の方を気にしてしまう。
番付百位以下。
それだけのはずの存在が、
場の流れを狂わせた。
「……なあ」
観客席の隅で、
誰かが小さく言う。
「さっきの、
あれ本当に百位か?」
「番付はそうなってる」
「じゃあ、なんで……」
言葉は、途中で止まる。
答えが出ないからだ。
この学園で、
説明できないことは
“面倒なこと”と同義だった。
上段の席。
情報係は、
端末の画面を見つめたまま動かない。
履歴は変わらない。
数字も変わらない。
だが、
“見る目”だけが変わった。
「……静かすぎる」
誰にともなく呟く。
喧嘩を避ける者は多い。
だが、
あそこまで落ち着いて避ける者はいない。
恐怖でもない。
計算でもない。
もっと、
別の理由。
体育館の扉の前。
もう男の姿はない。
それでも、
誰かが無意識にその場所を気にしてしまう。
まるで、
まだそこに立っているみたいに。
「……気持ち悪いな」
誰かが漏らした。
否定する声は、
上がらなかった。
その昼。
番付表が貼られた掲示板の前で、
数人が足を止める。
三年・百位以下。
そこにある名前を見て、
誰かが首を傾げた。
「……こいつ、
前からこんなだったか?」
誰も答えない。
だが、
全員が同じ違和感を抱えていた。
もう、
“見なくていい存在”ではない。
そう、無意識に理解してしまったから。










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編集部コメント
依頼人の悩みや不安に向き合うカウンセラーという立場の主人公が見せる慈愛にも似た優しい共感と、その裏にひそむほの暗い闇。いわゆる正義ではないものの、譲れない己の信念のために動く彼の姿は一本筋が通っていて、抗いがたい魅力がありました!