体育館の空気は、時間が経つほど濁っていく。
昼間よりも、
夜に近づくにつれて――
歓声は荒くなり、
笑い声は下品になり、
殴り合いは容赦を失っていく。
それでも、
この場所にいる誰もが慣れていた。
血の匂いも。
骨の鳴る音も。
誰かが倒れて運ばれていく光景も。
ここでは全部、日常だ。
壁際。
人の流れから半歩外れた位置に、
ひときわ大きな影が立っている。
身長、ほぼ二メートル。
肩幅も広く、
その場にいるだけで圧がある。
だが――
誰も気に留めない。
三年。
番付百位以下。
戦績ゼロ。
「見なくていい存在」。
それが、この学園で与えられた役割だった。
本人は、
そんな評価を気にする様子もなく、
リングを眺めている。
騒ぎに興奮するでもなく、
賭け札を握るでもなく。
ただ、
淡々と。
「……おい」
不意に、声が掛かった。
男の前に立ったのは二人。
二年生だ。
腕に巻かれた包帯、
袖から覗く刺青。
喧嘩慣れした立ち方。
「そこ邪魔なんだけど」
標準語。
苛立ちを隠そうともしない。
男は視線を向け、
少しだけ首を傾げた。
低い声。
抑揚の少ない関西訛り。
それだけで、
二年の表情が歪む。
「は?」
「何だよ、その喋り」
周囲から、
小さな笑い声が漏れた。
「百位が偉そうにすんなよ」
「三年のくせに、戦績ゼロだろ?」
いつもの流れ。
下を見つけて、
鬱憤をぶつける。
男は溜息を吐いた。
「聞いてねえよ」
次の瞬間、
肩に衝撃。
突き飛ばされた。
だが――
男の体は、動かなかった。
揺れない。
崩れない。
まるで、
床と一体化しているかのように。
「……あ?」
突き飛ばした側が、
一瞬だけ間の抜けた声を出す。
周囲がざわつく。
「今の……」
「倒れないのかよ」
男は、
視線を落としたまま、
静かに一歩前へ出た。
拳は振るわない。
構えもしない。
ただ、距離を詰める。
それだけで、
二年は無意識に後ずさった。
――近い。
デカい。
圧がある。
視線が合う。
そこにあるのは、
怒りでも威圧でもない。
ただの、
冷めた目。
淡々とした声。
その一言で、
空気が変わった。
「調子乗るなよ!」
耐えきれなくなった二年が、
拳を振り上げる。
その動きは速い。
少なくとも、
素人じゃない。
だが――
拳は、
途中で止まった。
男が、
腕を伸ばしただけで。
掴まれたのは、
手首。
力を入れているようには見えない。
だが、動かない。
「……っ!?」
二年の顔が歪む。
「な、何だよ……!」
骨が軋む音。
男は僅かに眉を寄せた。
そう言って、
手を離す。
次の瞬間、
二年はその場に崩れ落ちた。
殴られていない。
蹴られてもいない。
それなのに、
立てない。
「いっ……!」
手首を押さえ、
呻く声。
体育館が、
一瞬だけ静まり返った。
「今の……何?」
「殴ってないよな?」
「百位以下だろ、あいつ……」
囁きが広がる。
男は、
自分の手を見下ろした。
(……加減、間違えたか)
小さな独り言。
勝ち誇る様子もなく、
相手を見下ろすこともなく。
そのまま、
また壁際へ戻る。
何事もなかったかのように。
観客席の最奥。
一段高い位置で、
数人が無言でその様子を見ていた。
その中の誰かがスマホを操作する。
戦績ゼロ。
学園内喧嘩履歴なし。
数字と現実が、
噛み合わない。
男は、
周囲の視線を気にすることもなく、
出口へ向かって歩き出した。
関西訛りの独り言。
背中に、
無数の視線を浴びながら。
まだ、
誰も知らない。
この男が、
“試される側”で終わらないことを。
そして――
次に動くのが、
誰なのかを。













編集部コメント
依頼人の悩みや不安に向き合うカウンセラーという立場の主人公が見せる慈愛にも似た優しい共感と、その裏にひそむほの暗い闇。いわゆる正義ではないものの、譲れない己の信念のために動く彼の姿は一本筋が通っていて、抗いがたい魅力がありました!