翌日。
約束した以上、叶は身体を引きずるようにして事務所へ向かった。
頭の中はまだアルコールに濁っていて、視界はぼんやりしている。
足取りはふらつき、エレベーターに乗り込むときも壁に手をついてやっと立っていた。
――笑顔。
それだけを胸に繰り返す。
どれだけ壊れていても、人前では笑っていなきゃ。
そうじゃなきゃ、僕はもっと嫌われる。
社長室の扉をノックし、入室すると、加賀美ハヤトがデスクに座っていた。
落ち着いた眼差し。けれどその目は、少し冷たい。
「叶さん。……あなた、何をしているんだ」
低くもはっきりとした声。
怒鳴られるわけではないけど、その静かな響きが逆に胸を刺した。
「ごめんなさい……ご迷惑、おかけしました」
叶は頭を下げ、いつものように柔らかく笑おうとした。
けれど、その笑顔は引きつっていた。
「スタッフにも、共演者にも、迷惑がかかってる。
貴方はにじさんじの顔のひとりだ。責任を、自覚してもらわないと困る」
責任――その言葉に、心臓が締めつけられる。
僕は、また迷惑をかけてしまった。
僕は、また誰かを傷つけてしまった。
それでも、叶は笑った。
「……はい。ほんとに、ごめんなさい。
だから……少しの間、ライバー活動を休止したいです」
静かな沈黙が落ちた。
社長は一瞬、考えるように目を閉じた後、淡々と頷いた。
「……わかった。休止の件は承諾しよう」
その瞬間、叶の心の奥で何かが崩れる音がした。
了承してくれたのに――そこに温度はなかった。
まるで「早くこの話を終わらせたい」と言わんばかりの空気が漂っていた。
嫌われている。
もう、信じられていない。
叶はわずかに口角を上げ、無理に笑顔を作った。
「ありがとうございます……。ご迷惑、ほんとにすみません」
加賀美は視線を机の書類へ戻し、もう叶を見ていなかった。
それ以上、会話が続くことはなく、空気はどこか冷めきっていた。
「じゃあ……失礼します」
叶は小さく頭を下げ、足早に社長室を出る。
扉が閉じた瞬間、胸の奥にあった何かがぷつりと切れた。
廊下の光は明るいのに、心は真っ暗だった。
――やっぱり、僕は嫌われてるんだ。
――僕は、いなくなったほうが、きっと……。
笑顔を保ったまま歩く叶の視界は、にじんで揺れていた。
社長室を出ると、廊下には数人のスタッフが立っていた。
彼らは業務の話をしているように見えたが、叶の姿を認めると、すぐにひそひそと声を落とし、笑いを堪えるような表情を浮かべる。
――見られてる。
――笑われてる。
耳を塞ぎたいのに、声は全部聞こえてきた。
「やっぱり重いよなぁ、あの人……」
「休止って言い訳でしょ」
「葛葉くんも可哀想に」
言葉の一つ一つが棘のように刺さる。
けれど叶は、必死に笑顔を浮かべた。
無視して、普通の顔で通り過ぎよう。
それが一番だとわかっている。
だが、そのとき――
「……葛葉さんとでも別れたんじゃなーい? ははっ」
軽口を叩いたスタッフの笑い声が、廊下に響いた。
その一言は、叶の心を一瞬で引き裂いた。
――あぁ、触れてはいけないものに触れられた。
気づいたときには、体が勝手に動いていた。
叶はそのスタッフの胸ぐらを掴み、乱暴に引き寄せていた。
怒りと悲しみがごちゃまぜになり、拳が震える。
今すぐ殴って、この笑いを黙らせたかった。
だが――
「……っ」
拳を握りしめたまま、急に力が抜けていく。
殴ったところで、何が変わるんだろう。
殴ったら、僕はもっと嫌われる。
殴ったら、僕は葛葉に……二度と顔を見せられなくなる。
肩が震え、呼吸が乱れる。
スタッフは驚いた顔で固まっていたが、叶はその手をぱっと離した。
「……ごめんなさい」
声はかすれていた。
そのまま、逃げるように廊下を駆け出す。
スタッフたちの嘲笑やざわめきが背中に突き刺さった。
事務所の自動ドアを押し開け、外へ飛び出す。
秋風が頬を撫でた瞬間、叶は足を止められずにそのまま街を走った。
胸の奥では、怒りと悲しみと自己嫌悪がごちゃ混ぜになって渦巻いていた。
――どうして僕ばっかり。
――どうして、葛葉まで巻き込むんだ。
――どうして、信じてくれなかったんだ。
ぐちゃぐちゃの感情に押し潰されそうになりながら、叶はただ必死に逃げていた。












編集部コメント
主人公は鈍感で口下手ではあるものの『コミュ障』というほどではないので、キャラの作り込みに関しては一考の余地があるものの、楽曲テーマ、オーディオドラマ前提、登場人物の数などの制約が多いコンテストにおいて、条件内できちんと可愛らしくまとまっているお話でした!<br />転校生、幼馴染、親友といった王道ポジションのキャラたちがストーリーの中でそれぞれの役割を果たし、ハッピーな読後感に仕上がっています。