第90話

あの日見た雨を、花で隠して(リネ)
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2023/10/02 10:19
あなた

(……似てる。あの日に。)

不安な気持ちを裏付けるように、
暗雲がたちこめ、たちまち雨が降ってきた。

思い出したくない記憶。
閉じ込めてきた、あの日の記憶。

あなたが孤児になってから、
いくつもの歳月を重ねてきたというのに
あの血の匂いまで鮮明に思い出されるようで
吐き気を堪えて小走りで帰路を急いだ。
あなた

……あ、

やっとのことで玄関に駆け込んだ瞬間に
あなたの視界に飛び込んできた人物は
今とても会いたかったようで、
今だけは会いたくなかったようで。

無意識に目を逸らして、物陰に隠れる。

まぁ、きっとこの些細な抵抗は無駄になるだろう。
こちらが彼を見つけた時点で、彼がこちらに気がついていないはずもないし、
リネ相手に隠し事なんて通用するはずはないのだから。
リネ
おかえりあなた。具合でも悪いのかい?
あなた

……。

会いたくなかった。
嘘。会いたかった。

ずっと密かに抱いてきた想いが実って
ふたりが恋人同士になったのはほんの最近のこと。

なのに、目の前の恋人に返す言葉が見つからない。
大丈夫だと言っても見破られてしまう。
リネ
……あなた?
俯くあなたを覗き込むようにリネが近づく。
口をついて出たのは、思ってもいない言葉だった。
あなた

嫌。来ないで。
いまリネに会いたくないの。
向こうに行って、ひとりにして!

リネが恋人になってからずっと怖かった。
大切なものが出来るのが怖い。

自分が好きになりすぎると
すべて壊れてしまうような気がするから。

彼の手を振り払って自室に戻ろうとした時、
勢い余ったあなたの手が花瓶に触れてしまった。

ガラスの割れる音が響く。
あなた

痛……っ

指先に血が滲んだ。
ぽたぽたと落ちる赤いそれを、あなたは呆然と見ていた。
リネ
早く手当しないと!待ってて、今……
そこで、リネの声は聞こえなくなった。
身体に力が入らない。

思い出したくない。思い出したくないのに。
忘れて。忘れて。忘れて。
戻ってこないで。

いやだ、たすけて、息ができない。
あなた

たす、けて。リネ……どこ。

ああ、今さっき拒絶したばっかりなのに
結局彼の名前を呼んでしまった。

最低だ。これじゃ何がしたいのかさっぱりだ。
リネ
大丈夫、僕はここにいるよ。
落ち着いて。聞こえてる?
微かに聞こえた。
肩を支えてくれる温もりも、少しずつ感じられるようになってくる。
リネ
僕が数を3つ数えるから、
落ち着いて、ゆっくり息を吐いてごらん。
いくよ? 1、2、3。
そう、その調子。
彼の言葉は不思議とすっと耳に入る。
少しずつ頭が働くようになったきた。
リネット
お兄ちゃん、あなた。何があったの。
いつの間にかリネットもいる。
きっと、音をききつけて出てきたんだろう。
リネ
うっかり花瓶を割っちゃって、あなたが怪我をしてしまってね。

僕がここを片付けておくから、リネットはあなたを部屋まで連れて行ってあげてくれる?
リネット
……片付けは私がやる。
今のあなたには、お兄ちゃんが傍にいた方がいいでしょ。
リネ
でも、危ないよリネット。
リネット
大丈夫。ちゃんと注意して片付けるから。
少し迷ったあと、リネは頷くとあなたを抱え上げた。
リネ
……ありがとう。何かあったら絶対にすぐに僕を呼んでよ?
リネット
わかってる。
そんな兄妹の会話を、申し訳ない気持ちで聞いていたあなただったが、
雨に濡れた疲れもあって、リネの温もりを感じるうちに半ば気絶するように眠りについてしまった。
あなた

ぅ……ん……。

……どのくらい寝ていたんだろう。
目を開けて、すぐにリネに抱きしめられていることに気がついた。
あなた

(……リネ。寝ちゃってる。)

リネットは大丈夫だっただろうか。
すぐに謝りに行きたい。

リネを起こさないようにそっと動いたつもりだったけれど、
気配に敏感な彼は目を覚ましてしまった。
リネ
……ん、目が覚めた?
あなた

リネ。あの……本当にごめん。

いま、寝ているリネを起こしてしまったことも、
リネットに割れた花瓶の片付けをさせてしまったことも、
拒絶の言葉を向けてしまったことも。

全てが自分のせいに思えて、
自分なんていない方がいいんじゃないかと
そんなふうに思えて仕方ない。
あなた

いっそ……私もあの日一緒に……

涙が溢れて、ついそんな言葉を呟いた口は
そこで塞がれた。
リネ
それ以上は言わせないよ。
少し長めのキスの後、リネの指があなたの涙を拭った。
リネ
リネットなら大丈夫。
片付けが終わったあと報告に来てくれたよ。
怪我もないから安心して。
あなた

よかった。

……でも、それだけじゃない。
リネ。あなたに酷いことを言った。

リネ
……酷いこと?何のことかな。
君の言葉が本心かそうでないかくらいお見通しだよ。

そりゃ、心から拒絶されたら傷つくけど。
そうでないなら、僕が気にするわけないだろ?
魔術師を恋人にすると嘘や隠し事は通用しない。

でも、気持ちを読み取っていても
リネはそれについて問い詰めたりしない。
ただ必要な言葉を、必要な分だけくれる。

そんなところがやっぱり好きだ。
……離れたくない。失いたくない。
あなた

怖くて仕方ないの。リネ。
あなたがいなくなってしまったらどうしよう。

そう言ってまたぼろぼろ泣き出したあなたを見て、
リネは少し微笑んでまたその肩を抱き寄せる。
リネ
……そっか。うん、よく言えたね。
リネの手が温かい。
背中をゆっくりさすって、宥めるような口調で話す。
リネ
君の気持ちはわかるよ。
僕も大切な人が奪われてしまったらどうしようってよく考えるからね。
あなたは知っている。
リネが過去に何を経験したか、
その時の彼の焦りや不安も。

一緒にいる時間が長くなるほど、
失う恐怖が付きまとう。

自分たちのような経験をした人間は
他人よりも更に強いその恐怖と向き合わなくてはならないのだろう。
リネ
君に二度と同じ思いはさせない。
大丈夫。僕はずっとあなたの傍を離れないよ。
僕が最後まで守り抜いてみせる。

……何度でも言うよ。
あなたが不安になる度に、何度でも。
あなた

……。

リネの声は優しく力強かったけれど、
あなたはすぐに何かを返すことができなかった。

……だって、それはなにか違う。
それじゃ何も変わらない。

リネに守られて、リネの後ろに隠れて
本当にそれでいいの?
安心を言葉で貰って、それでいいの?
あなた

……違うよ。リネ。

リネ
……?
予想外の答えに、リネも珍しく少し動揺してあなたの顔を見た。

あなたの瞳は余りに澄んで美しく、
それでいてまっすぐにリネを見つめていて、思わず息を呑んだ。
あなた

……その言葉を貰ってやっと気がついた。

リネだけが抱え込むことじゃないの。
これは2人のことだから。

私には、リネを守るような力はないけれど、
せめてそうやってひとりで頑張ろうとするリネが甘えられる居場所でありたい。

リネは少しそのまま固まっていたけれど、
あなたの目を見て頷くと、笑った。
リネ
……やっぱり君には敵わないよ。
不意にリネが指をパチンと鳴らした。
その瞬間、何も無かった彼の手に花が一輪現れる。
リネ
じゃあ、お言葉に甘えて。
この先もずっと、隣にいてくれるかい?
美しいお嬢さん。
あなた

……何それ。似合わない。

リネ
あ、その言葉は本心だよね。傷つくなぁ。
あなたはその花を受け取ると、今度は自分からリネに短く口付けして笑った。

二人の優しい時間を、花の香りがほんのりと甘く包む。
あなた

喜んで、私の大魔術師様。

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