🐬side
手術当日の朝。
まだ外は薄暗く、静かな宿舎にコーヒーの香りだけが漂っていた。
私はその香りを頼りにリビングへ向かうと、ひーくんがマグカップを手に立っていた。
ひーくんは何も言わず、そっともう一つのカップを差し出した。温かさが手のひらに広がるのに、胸の奥は冷たいままだった。
玄関の前で、3人が並んで立っていた。
ジョンファンは目に涙を浮かべながら何も言わずに手を振った。
ハルトは私の荷物を持ち、先に歩き出す。
ギュッ
病院へ向かう車の中。
マネージャーもハルトも、ほとんど言葉を発さなかった。
私は膝の上にノートを開き、震える手でペンを走らせた。
X月X日
手術の日。本当は怖くてたまらない。
もし声が戻らなかったらって、考えるだけで息が詰まる。
でも、それでも前に進まなきゃ。
だって、ステージにもう一度立ちたいから。
みんなが「待ってる」って言ってくれた。
その言葉を信じたい。
また歌えますように。
書き終えた瞬間、胸の奥が少しだけ軽くなった気がした。
ノートを閉じると、ハルトがちらりと私を見て、何も言わずに前を向いた。
それだけで、少しだけ勇気が湧いた。
病院に着いた。
入院着に着替え、手術室の前に立つ。
扉の向こうに、自分の未来がある。
けれど、今はその一歩がやけに重たく感じた。
マネージャーが何かを医師と話している間、私は少しだけ立ち止まり、振り返る。
ハルトが、静かに手を差し出していた。
その瞬間、胸の奥がぎゅっと熱くなる。
一歩、二歩。
気づけば、私はハルトの胸に顔を埋めていた。
ハルトの手が、そっと私の背中を包み込む。
言葉なんていらなかった。
鼓動が伝わるだけで、少しだけ怖さが薄れていく気がした。
抱きしめた腕に力を込めて、ゆっくりと言った。
ほんの数秒の抱擁。
でも、その温もりが、冷たい空気の中で最後の支えになった。
扉の向こうへ歩き出すとき、もう涙は止められなかった。
それでも、背中に残る温かさが「大丈夫」と小さく囁いた気がした。
手術室に足を踏み入れると、独特の消毒液の匂いが鼻を突いた。天井は眩しいほど明るいのに、なぜか世界が遠く霞んで見えた。
医者「深呼吸してね。ゆっくりで大丈夫だから。」
マスクを当てられ、一度だけ大きく息を吸った。
ハルトの「待ってる」が、まだ耳の奥に残っている。
その声を反芻するように、ゆっくりと瞼を閉じた。
「、、、あなたさん、聞こえますか?」
遠くから声がした。
重たい瞼をゆっくり持ち上げると、白い天井と、マスク越しに微笑む看護師が見えた。
喉に鈍い痛み。
でも、それが終わっただという証拠でもあった。
意識が少し戻ると、カーテンの向こうから足音がした。
そっとカーテンが開き、ハルトが顔を覗かせた。
目が合った瞬間、彼の表情が崩れた。安堵と涙が混ざったような顔で、ベッドの傍に駆け寄る。
その声は震えていた。
返事をしたくても、声が出ない。代わりに、私は小さく頷いた。
ハルトはその手をそっと握り、何も言わずに微笑んだ。
その温もりだけで、ああ、生きて戻ってこれたんだ。と実感する。
手術から、数週間が経った。
喉の痛みは少しずつ和らいできたけれど、まだ声は、前のようには出なかった。
医師の許可をもらって、少しずつ発声練習を始めている。
練習室の片隅、ジョンウオッパがピアノの前に座り、私がその横に立つ。
優しい声が響くたび、胸の奥がきゅっと痛んだ。
唇を開き、そっと息を吐く。出たのは、かすれた声。
高音に届く前に、喉が震えて止まった。
何度も挑戦しても、音は掠れて消える。
オッパは笑ってそう言う。
けれど、その笑顔を見れば見るほど、心のどこかで声がする。
こんなの、もう歌じゃない。
ピアノの音が止む。
オッパが私の好きなココアを渡してくれる。
私は小さく頷く。
けれど、喉の奥が熱くて、飲み込むココアの味もわからなかった。
部屋の隅にいたハルトが、静かに立ち上がって寄ってくる。
そう言って、頭を軽く撫でた。
笑わなきゃと思って、私はかろうじて笑顔を作った。
でも、胸の奥は空っぽだった。頑張ってるのに、どこにも届かない。
自分だけ、取り残されていく気がした。
夜。
宿舎に戻って、ノートを開く。
手が震えて、文字がうまく書けない。
X月X日
練習した。少しだけ声が出た。
でも、全然足りない。
前みたいに歌えない。前みたいに笑えない。
みんなは優しいのに、その優しさが、怖い。
また、歌えるようになるのかな。
.....続く
















編集部コメント
依頼人の悩みや不安に向き合うカウンセラーという立場の主人公が見せる慈愛にも似た優しい共感と、その裏にひそむほの暗い闇。いわゆる正義ではないものの、譲れない己の信念のために動く彼の姿は一本筋が通っていて、抗いがたい魅力がありました!