第18話

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2024/01/13 21:16







「ジェノヤ」

「…お疲れ様です」


静まる警察署内。
取調室から出てきたジェノを呼び止めた班員の男は、紙コップに入った珈琲を渡して二人でソファに座った。夜の十時を指す時計と暗くなった空に、服に染み付いた煙の臭いが気を沈ませる。


「ジェミナは病院?」

「はい。縫うだけだからって帰されました」


笑みを浮かべながらそう言うジェノの表情は浮かない。
あんな事があった後だ、色々と気掛かりで落ち着かないのだろう。淹れたての熱い珈琲ですら冷ます前に飲み干して、紙コップを手の中で潰しながら溜息を押し殺す。


「ヘチャンは?」

「まだ手術中だそうです。息をしてなかった時間も長い上に強く頭を打ったから、後遺症が残る可能性が高いし…最悪二度と起きないって」

「…そうか」


あの爆発の後、駆け付けた救急車が陸に吹き飛ばされていたヘチャンを見つけた。爆風と共に塵になったか海に落とされたか、少なくとも生きている事は無いだろうと諦めていた中の朗報だった。発見されたときには既に自発呼吸もせず、数箇所に渡る火傷と骨折、強く打った頭からの流血で、あと少しでも処置が遅れていたら確実に息を吹き返さなかっただろうという話だ。とはいえあの爆発の後だ、その話を聞いても肝は冷えなかった。


「でも生きてて良かった…もう絶対無理だと思って、俺…」


ジェノが少し震えた声でそう呟きながら俯けば、隣に座る班員の男は慰めるように肩を撫でた。
爆発した部屋の中にヘチャンが居ると理解したあのとき、漠然とした恐怖のような感情を覚えた。ロンジュンが退院することを喜んでいた姿も、免疫が弱った彼の為に家を隅々まで掃除する姿も、ジェミンにミサンガの作り方を教わる姿も全部無かったことになるような、彼が苦労の末にやっと掴んだ幸せを全部奪われたような気がして。波のように襲う炎や崩れゆく船を見て、真っ先に浮かんだのはロンジュンの顔だった。


「まだ、どうなるかは…分からないですけど」

「アイツなら大丈夫だ」


“なんかそんな気がする”と根拠の無い言葉だったが、ジェノも何となくそんな気がしてしまっては笑みを零した。紙コップを捨てて上着を片手に立ち上がると、ポケットに車の鍵が入っていることを確認して言った。


「……ジェミン迎えに行ってきます、心配なので」

「チーム長に言っとくよ。帰ったらゆっくり休みな」

「はい、お疲れ様です」


軽く頭を下げて挨拶を済ませれば、小走りで廊下を渡ってエレベーターのボタンを押した。エレベーターが辿り着くまでの間、壁にもたれかかって目を瞑って溜息をついた。
たった数時間で起きた出来事があまりにも衝撃的で、落ち着いた今でも感情の整理が出来ていない。小規模作戦だったはずが危うく死者を出しかけ、巻き込まれた内一人は頭を縫う怪我をした。結局作業員は全員死亡し、現在は見張り番の構成員二人を取調中。一年前に似たような作戦をしたときは難なく終わったのが余計に引き金となってか、同僚の身に起きた事故も相まって心身的な疲労が身体を重くさせる。


「………」


エレベーターに乗り込み、「1」の番号を押した。

ロンジュンの耳には入っているのだろうか。
血縁関係にない二人だ、どれだけ一緒に居る時間が長からろうと身内じゃなければ連絡すら入ってないかもしれない。かといって、連絡を入れる気にもなれなかった。
ヘチャンは明日の為に少し短い休みを取っていたのに、当の本人が目覚めなければ何の意味も無い。やっと病院の外に出て帰れるというのに、その家にヘチャンが居なければ。


「…クソ」


行き場のない苛立ちと悲しみを、小さな暴言と共に捨ててエレベーターを降りた。重い足取りで駐車場へ向かって鍵が反応した車の方へと歩けば、運転席に乗り込んで助手席に上着を置いた。


「…………」


運転席に体重を預ければ、片手をハンドルに置きながらスマホの画面を見下ろした。ジェミンとのトーク画面を開いて“迎えに行く”と短く告げると、スマホを置いてゆっくりと車を走らせた。


夜の海は、黒い。

吸い込まれそうなくらい。

渦巻く怒り、憎い罪。

いつになったら全員が“幸せだ”と、笑って過ごせるのだろうか。







*
*
*
*









誰も居ない、静かな病院。
受付に座る患者も、受付人も、見舞人もいない。
“手術中”と赤く光った表示灯が虚しい。
さっきまでの喧騒や激しい音が、全部嘘のように静かだった。けれど未だに片耳から耳鳴りがして、縫い付けた額の傷が刺すように痛い。罪悪感と後悔が全身を蝕んで、その感情を押し殺すように自分の手に爪を立てた。


「ジェミナ」


爪が皮膚を破る直前。
ジェノの声に名前を呼ばれれば、咄嗟に手の力を弛めて顔を上げた。小走りでやって来るジェノは至極心配そうに眉を寄せながら、目の前に立つや否や片腕に丸めていたダウンを肩に掛けてから片膝を着いて顔を覗き込んだ。白いガーゼとテープに覆われた傷跡には安心したような表情を見せたのは、数時間前は頭が血みどろの状態だったからだ。そっと握ってくれる手は少し冷たい。


「ずっとここに居たの?」


ジェノの問いに、小さく頷く頭。
長い睫毛に被さる茶色い瞳は、いつもよりも暗かった。
出血量も多かったしあれだけ動いた後だ、本当は家で身体を休めて欲しいが、彼はきっとそんな気にもならないだろう。中途半端な慰めも意味はない。あまり血色の良くない肌色と乾いた血が付着した服を見たジェノは、静かに横へ座ってジェミンに肩を貸した。貧血気味なのか大人しくもたれかかってくる身体は、長時間暖房の風に晒されたおかげで暖かかった。

僅かな静寂の後、口を開いたのはジェノだった。


「ヘチャンの手術が終わるのは多分…まだ先だよ」

「……」

「帰って休まなきゃ」


ヘチャンと比べてしまえば軽傷だが、ジェミンの怪我も軽いものではない。彼の頭を覆う医療用ガーゼの下にはきっと縫合されて間もない傷がある。手術室の前にある固いソファで何時間も座りっぱなしは彼の体に障るだろうと、ジェノは半ばダメ元で彼を説得した。扉の向こうで行われている手術の終わりを待ったところで、それが良い結果とは限らない。


「…家は落ち着かない」

「でも」

「迷惑はかけないから、ここがいい」


はっきりした口調と声色でそう言われると、暫くの静寂の後、ジェノはジェミンの頭を肩に置かせてダウンを膝にかけた。


「分かった、俺もここにいる。いい頃合で起こすから寝てな」

「ジェノは…」

「コーヒー飲んで目覚めたよ」


分かりやすく“平気です”といった風を装い声色と表情で表してみせた。ジェミンは暫く気遣って意識を保っていたが、疲労が勝ったのか、ものの数分で穏やかな寝息が耳の傍で聞こえた。長い睫毛を生やした瞼は動かず、肩に寄りかかる体重が無遠慮になる。彼が確実に眠ったことを確認すると共に、ジェノは天を仰ぎながら深い溜息をついた。


硬膜下血腫、というものらしい。
駆け付けてくれる身寄りが居ないヘチャンの現状を聞いたのはドンヨンと自分だけだった。あの爆発があった後で医者の難しい話を聞いても理解出来ずじまいだったが、“心の準備はしておくように”、その嫌な一言だけは妙に耳に残って離れなかった。

半ば、諦めている。

ヘチャンなら生き延びる、大丈夫、そんなことはない。人は簡単に死ぬ。前触れなく唐突に、呆気なく。
船外まで吹き飛ばされて身体を打ち付けた上に、火傷と骨折、その他沢山の傷と脳内の出血。見つけたその場で穿頭と挿管を受けて搬送されるあの姿を見て、“きっと病院に着いても助からない”、そう感じてしまった。いつもは五月蝿い程元気なヘチャンが、何をされても起きない姿に。手術が終わったとて、その結果がいいとは限らない。ロンジュンに伝える為の言葉を選んでしまう。


「……はー…」


オフィスにあるヘチャンの鞄には、きっと完成した黄色のミサンガが入っている。抗がん剤治療で頭髪が抜けたロンジュンの為に、新しい帽子も買ったはず。家には入院中に食べられなかったお菓子や料理が買い込まれてあるはず。帰ってくるロンジュンの為に、自分達が想像する以上のものを置いて待っているはず。何せ唯一の家族なのだから。
あの場でヘチャンがジェミンを優先して助けたのは、きっと自分が死ねばロンジュンに死亡退職金が流れるからだ。二人共々吹き飛ばされるより、死んで利益のある自分が死んだ方がいいと考えたのかもしれない。“もっとお金があればロンジュンに楽させてあげられるのに”、それが口癖だったから。ジェミンの復讐が終わっていない事も知っていたから。



死ぬな。


どうか、どうか。


連れて行かないで欲しい。


お前はまだ、生きていなくちゃならないんだ。












「硬膜下血腫か」

「除脳硬直、瞳孔散大、頭蓋に穴を開けたら大量の血が」


術衣に身を纏った複数人の者達。
手術台に横たわるヘチャンの頭部には執刀医と助手が小さな声で会話を交わしながら、小さく一部分だけ開かれた脳内をじっと見つめていた。


「ここが出血してる。クリップをかけたことは?」

「いいえ」

「やってみろ」

「はい」


助手に器具を受け渡しながら、“他の動脈を挟まないよう気を付けろ”と声を掛けた。機械の動く音だけが響く中で、小さく細い血管にクリップが掛けられる。


「上出来だ」

「どうも」

「完了だ、“屋根”を直して」


ガーゼで脳の表面を拭き取ると、膜を鑷子で挟んで閉じた。頭を閉じる作業の最中、執刀医はぽつりと独り言のように呟く。


「この彼をよく院内で見かけていた」

「……彼ですか?」

「僕が担当する癌患者と仲が良くてね。その患者に一度、関係を聞いたんだ」


頭の傷を閉じ、傷口をガーゼで覆いながら脳波計を取り出していく。


「そしたら“たった一人の家族だ”とね。…血縁関係にはないけれど、大事な兄弟だと」

「…………」

「その患者は明日退院だ。だから彼は今死ぬべきじゃない」


ヘッドセットを頭に着けて機械を起動させれば、手を離して大きな画面の方を見た。一本線を描く複数の線は、ヘチャンの脳波を指している。


「脳波は?聞きたい言葉は“活動あり”だ、頼む」


“彼が待ってる”と呟き、モニターを確認する補助を見下ろした。


「………………活動なしです」


「……見せて」


画面が切り替わり、全ての脳波を表す波形には一つの山もない。ヘッドセットを軽く押さえて付け直し、“もう一度確認を”と。



「変わりません」


「…神経回路の変化ですか?脳がシナプスを変えたとか」



助手の言葉に、執刀医の男は下を向いて小さく息を吐き“違う”と呟いた。手袋を取ってマスクを外し、諦めたように手術室の出口へ足先を向け。




「活動停止だ。………彼は亡くなった」




波形は歪まない。
一本線を、描く。



助手は暫くその場に立ち竦んだ後、そっと手袋を取ってマスクを外した。出口に向かいながら術衣を脱ごうと背中に手を回すと、その手を止めるように大きな声が響く。




「待って下さい、動きが……」


「…………?」





モニターを確認する補助の女は執刀医と助手を引き止めると、ヘッドセットを再び付け直してからモニターを画面に映した。





「見せてくれ」





すると、そこには緩やかな波形を描く脳波が複数本。
やがてそれに習うように、全ての脳波が揺れた。





静かな部屋に響き渡る電子音が、知らせる。








「心電図も正常、機械の誤作動じゃありません」








僅かに歓喜を含む声が、告げた。










「脳波確認、活動ありです」

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