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第1話

略史
6
2025/01/13 05:00 更新
 次に、三番線に参ります電車は、七時七分発の金山行、普通です―

 古い駅に、いかにもな自動音声の案内が流れる。見渡す限り空き地で、この音が迷惑になる場所すらも見当たらない町。
 冬の朝、まだほんのり暗い空は昨日の雨のしっとりとした雰囲気をまだまといながら少しずつ少しずつ朝を迎えていた。

 少年が改札を通る。その横にあるはずの駅長室はシャッターがおりている。自動改札くらいはあっても、駅員のいない駅。幼いころから見ていたけれど、あまり使うことはなかった名鉄の大野町駅である。

 ホームに電車が止まる。
 過疎も著しい駅だけど、朝夕だけは急行が止まる。少年は普通列車に乗り込んだ。

 大野町駅は愛知の端、太平洋にのびる知多半島のなかほどにある海沿いの田舎町。ここから名古屋市のターミナル駅である金山、そして名古屋駅方面に向かうには一時間はかかるだろう。
 始発駅の中部国際空港から三、四駅ほどしかないこともあって座ることができたので、少年はスーツケースが転がらないようにしながらシートに腰掛けた。

 先頭車両のシート。運転席と、その先に広がる景色をなんとなく眺める。

 車内の、何年も変わっていないような匂いのする空気は嫌いではない。地元ローカル線でもあるこの線は古い車両が使われている。
 色あせた広告に、家の窓に使われるタイプの、シェードですらない日よけ。窓から少しのぞいた名鉄スカーレットが、斜めに差し込む朝陽に反射して眩しかった。

 太田川の駅までは、あまり人が乗ってくることもない。ただ扉が開いたり閉まったり、車輪が止まったり動いたりするだけ。

 二階建てのホームに、急行や特急も停車する本数を持つ太田川の駅に到着すると、電車の電源が切れたような、情けないプスンという音がした。

「この駅で特急を待ちます」

 車掌の肉声によるアナウンスが流される。
 車内保温のためドアの一部が閉められて、静まり返った車内を見渡した。

 人は居ないはずなのに、さっきからどこか重苦しいというか、気配というか、そんなものを感じる。
 開くと何があるのか想像もつかない、床にある謎の扉や、つめたいステンレスの手すりにも、まるでそこに人が立っているような、圧のようなものすらあるように思えてきた。

 人身事故の多い名鉄、まさかと思いつつ、気を紛らわしにスマホを開く。

 斜め前に、着物の女性が座った。持ち物や化粧など、お世辞にも今どきとは言いがたいが、キメの整った肌は白黒写真からでてきたような感覚だった。

 やっぱりどうも満員電車にいるみたいな感覚のまままた揺られる。太田川を越えると、しばらくは大きな駅がない。暇を持て余して、少年はまた周りを見た。

 ”それ”と目が合った瞬間、この不思議な感覚の全てを理解した。

 この電車は古い。
 その車内にあるのは、人だけじゃなかった。
 色褪せて読めなくなり忘れられた広告。座りすぎて千切れかけた優先席のシート地。傷に汚れに、これまでこの列車が生きてきたすべてが、ここには詰まっている。
 ピカピカの新車ではじめて人を運んだその日から今日までの何十年もの間、一日ずつ刻まれた、毎日違う歴史がこの車体に残されていったのだ。

 名古屋本線と、少年がここまで乗ってきた常滑線が合流する神宮前の駅で、学生が乗ってきた。
 静かな車内に、思春期の男の子たちの、無邪気な笑い声が転がる。
 その傍らで、静かに揺れるつり革。

 目の前で本を読んでいた、着物の女性と目が合った。きまずい、と思ったら女性がふっと微笑んで会釈した。少年も会釈を返す。

 終点の金山駅に止まると、乗客はみんな降りていく。少年は人のいなくなった車内をもう一度見渡してから、名古屋駅に止まる急行電車に乗るべくホームを移動した。
 一八歳の冬の終わり、ひとり立ちして大阪へ向かう少年は、あの車両にまたひとつ歴史をつなげた。

 金山は名古屋駅に次ぐ市内有数のターミナル駅だ。少年は電車を降り、目の前のホームに向かう。
 ホームに雪が舞い始めた。海沿いの知多半島では見ることの少ない雪。年甲斐もなく気分が高揚したが、すぐに電車、急行一宮行が来た。
 さっきのより新しそうな、ステンレスの電車に乗り込む。椅子の色が違ってみえる。

 すぐに名古屋駅に着いたが、新しい電車からは、さっき感じた「重み」を感じなかった。

 少年はというと、新幹線口まで歩みを進め、座席を確認して新幹線に乗った。
 高校も卒業し、三年間続けてきた演劇の道に進む。住み慣れた地元を離れ、新しい春を迎えるのだ。

 この電車の旅は、ただの移動ではない。誰も知らない、だけど絶対に存在する、価値ある歴史の一頁なのだ。

            完

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