風が吹いている。
冷たいけれど、優しくて穏やかな風が。
運ばれて来たこの香りは、何の花だろう。
わからないのに、なつかしい気がする。
ミルクティーみたいな色の何かが、目の前でサラサラと揺れていた。
ぼんやりと滲んだ視界は水の中のように光が乱反射していて、なかなか鮮明にならない。
膝裏に当たる草の感触で、横になっていたのだと気が付き、ゆっくり体を起こしてみると、傍にいた誰かが背中を支えてくれた。
長い長い夢から覚めたかのようで、目の前の景色に現実感が無い。
なぜなら、
灰色や黒以外の空を見たのは、とても久しぶりだったから。
思わず目元に手をやると、タキさんが手鏡を差し出してくれた。
震える手でそれを受け取り、自分の顔を映す。
夏目くんが、私の瞳を覗き込んで優しく笑った。
田沼くんとタキさんは、少し涙ぐんでいる。
頭に乗せられた名取さんの手の温かさとその言葉で、全部終わったのだと理解した。
ただ夢中で駆け抜けただけで、みんなの状況を把握している余裕なんてなかった。
全員の頭から爪先まで凝視して確かめていると、名取さんが笑いながら私の足を指す。
そう言われて自分の膝に目をやると、そこは既にガーゼで手当をされていた。
盲婆を引き付けている途中で転んだから、おそらくその時の傷だろう。
こちらに向かってくる禍々しい髪の束を思い出して、背筋がぞくりとした。
2年前の私と同じように盲婆の髪に絡みつかれていたのだから、妖力も吸われてしまったのではないだろうか。
すると、名取さんはコートのポケットを探り、何かを手の平に乗せてこちらに差し出した。
それどころか、回復までさせてもらったのだと、お守りを眺めながら名取さんが言う。
ちゃんと、役に立っていた。
私にできることはみんなから離れることじゃなくて、私の持っている力でみんなを守ることだった。
この力があって良かったと心から思えたのは、初めてかもしれない。
何もできないと嘆いているだけの私から、一歩前に進めた気がした。
居住まいを正して、みんなの顔をしっかりと見る。
本当に、本当に、心からの言葉だった。
色づいたみんなの姿が、笑顔が、今までより一層温かく見えて。
何年もかけて溜まっていた心の澱が、少しずつ消えていくのを感じる。
深く息を吸い込むと、冬の匂いがした。
いつの間にか山に戻って来ていた鳥のさえずりが、どこかから聞こえてくる。
木々の隙間から差し込む光が眩しくて、温かくて、私は目を細めながら青い空を見上げた。
失っていたのは色彩感覚だけなのに、まるで五感すべてが一度に返ってきたみたいだ。
匂い、音、光、何もかもが新鮮に感じて、自然と胸が高鳴る。
夏目くんと名取さんがこちらを見て、小さく微笑んだ。
きっと今の私は子供のような顔をしているのだと思う。
少し恥ずかしかったけれど、とても俯いてなんかいられなくて。
私はキョロキョロと忙しなく首を動かしながら、目に映る景色をただ夢中で眺めていた。
だんだんと花の香りが強くなったと思ったら、かつて白妙と訪れた薬草の群生地が見えてきた。
妖の間で噂になるような場所だから、きっと不思議な力が宿っているのだろう。冬の寒さなど関係なく、そこにはたくさんの花が咲いていた。
赤、ピンク、黄色、緑、青、紫…
溺れてしまいそうな色彩の渦の中、ふと、夏目くんの顔を見る。
目が覚めた時、最初に見えたのは夏目くんの髪だった。
ずっと知りたかった、夏目くんの色。
自分の目で見てみたいと、ずっとずっと願っていたのはどうしてだろう。
今も理由はよくわからないけれど、私は確かにあの日、心を動かされた。
このままでいいと諦めていた私の心が、小さく弾んで音を立てたのだ。
自然と口をついて出たそれは、ほとんど呟くような声量だったけれど。
すぐ隣にいた夏目くんには聞こえたようで、さっき聞いたよ、と返事が返ってきた。
そう言いながら夏目くんは眉を下げて笑った。
今度は守ることができて良かった、そう思うと同時に、胸の奥がチクリと鋭く痛む。
今さら考えても仕方ないとわかってはいても、この色とりどりの景色を前にすると、どうしても白妙を巻き込んでしまった後悔が押し寄せて来る。
そんな風に思った時だった。
突然、どこからか声が聞こえた。
辺りを見回しているのが私たちと猫さんだけなので、今の声は妖のものということになる。
無意識に体が強張り手を握りしめると、夏目くんと名取さんが素早く前へと出た。
警戒の色を強めながら、二人が低く囁き合う。
もしも襲ってくるようなら、私も田沼くんやタキさんを守りたい。
そう思って夏目くんの背中からそっと顔を出したのだけど、私はそのまま固まってしまった。
大きな狐のような姿をした妖が背にくくりつけていたのは、記憶の底に刻まれたあの本だった。
間違いない。深い緑色に、あちこち焼け焦げた跡。
逃げるのに必死で、あの日持ち帰ることが出来なかった、大切な――
狐の妖が、こちらを振り返る。
過去にこの妖と出会った、ましてや名乗った記憶など、全くなかった。
私が今までに名を教えた妖は、ただ一人だけ。
嬉しそうに微笑むと、狐の妖はこちらに歩み寄り、優美な所作でお辞儀をする。
くるりとこちらに背を向けると、麻葉はくくりつけてあった本を指した。
そう言って麻葉は、まるでどこか遠くを見ているかのような、なつかしむような眼差しで、私の瞳を見つめる。
『い、いつだったか、沼に居着いた大妖を祓っていただろう!』
『えぇと…それは母だと、思う』
妖というのは多分、人間同士よりも容姿を細かく判別するのに慣れていない。
けれど、それでも母に似ていると言われるのは、やっぱり嬉しかった。
白妙に託したはずの本がこんな場所に落ちていた理由も、白妙本人の姿がない理由も、きっと麻葉は知らない。
説明のために出来事を頭の中で順序立てていくと、私のせいで白妙は消えてしまったという事実が胸に突き刺さった。
話さなくちゃいけない。そう思えば思うほど、喉が詰まったように声が出てこない。
『白妙…大丈夫!?』
『あなた…私、は……』
――しばし眠る
頭が真っ白で、そう返すのがやっとだった。
もしかしたら、私は自分に都合の良い夢を見ているだけなのかもしれない。
でも、もしも。
もしも本当に、灰色でないこの世界に、まだ白妙がいてくれるのだとしたら。
『あぁ…瞳の色が…変わって、しまったな』
この瞳の色を見せて、戻ったよって、あの子にそう言えるのだろうか。
夏目くんの手が、優しく肩に乗る。
その温もりが、夢ではないと言ってくれている気がした。
手にしていた薬草を掲げると、麻葉はそれを大切そうに懐へと仕舞った。
白妙とのつながりが無くなってしまう。そう思ったら、麻葉を引き留めていた。
慌てて鞄からメモ帳とペンを引っ張り出し、住所と簡単な地図を書きつける。
麻葉は差し出した紙ごと、優しく私の手を握った。
みんなが次々とティッシュやハンカチを差し出してくれたので、私はきっとひどい顔をしていたのだと思う。
それでも、堪えることもなく、ただ声をあげて泣いた。
彼らの前では泣いてもいいって、きっとおばあちゃんもそう言ってくれるはず。
時折運ばれてくる、なつかしい花の香りに包まれていると、なぜだかそう思えてならなかった。













編集部コメント
主人公は鈍感で口下手ではあるものの『コミュ障』というほどではないので、キャラの作り込みに関しては一考の余地があるものの、楽曲テーマ、オーディオドラマ前提、登場人物の数などの制約が多いコンテストにおいて、条件内できちんと可愛らしくまとまっているお話でした!<br />転校生、幼馴染、親友といった王道ポジションのキャラたちがストーリーの中でそれぞれの役割を果たし、ハッピーな読後感に仕上がっています。