初めてあなたの名字と言葉を交わしてから、いつの間にかひと月以上が経っていた。
暦の上では冬を迎え、上着をはためかせる風の匂いも、冬のそれへと変わっていくのを感じる。
昼休み。俺たちは屋上ではなく、田沼とあなたの名字のクラスの隅に集まっていた。
しかしあなたの名字は周囲の目が気になるようで、先ほどから俯きっぱなしだ。
確かに事情を知らないクラスメイト達の目には珍しい組み合わせに映るのだろうが、彼女が言うほどこちらを気にしている人はいないように思える。
あなたの名字がまだ呪いをどうするか決めかねていた期間は、こうして昼に集まることもしていなかったのだが、その時にたびたび昼食を抜く彼女の姿を田沼が目撃していた。
呪いを受けてから食欲がわかないと以前話していたし、それは無理もないことだと思う。
けれど、だからと言って彼女がきちんと食事を摂らないのを黙って見ていることは、やはり出来ない。
そう小言を言う俺たちをあなたの名字はきょとんとしながら交互に見つめていたが、やがて小さく噴き出したかと思ったら、その唇がゆっくりと弧を描く。
自然で、花が咲いたような笑顔だった。
そう言って、あなたの名字は机に置いたままになっていたおにぎりを手に取る。
子どもみたいにちょっと得意げな顔をしておにぎりをかじる彼女を見ていたら、こちらもいつの間にか笑っていた。
一人になってから、こんなこと誰にも言われなかったんだよな。
俺が塔子さんに叱られるのを嬉しく思ってしまうように、彼女もまた、きっと。
叱られるって、大切に想われているようで、心が温かくなるんだ。
今週末、名取さんがもう一度この町を訪ねてくれるらしい。
そこで田沼も交えて妖を祓う、もしくは封じるための具体的な作戦を決めることになっている。
そんなことを話しながら昇降口を出た所で、前方に見慣れた後姿を見つけた。
不意に、彼女の表情がひきつったように固まる。
視線はやや上を向いていて、俺も倣うように振り返ってみると、白っぽい何かが校舎の裏側へ飛んでいくのが一瞬だけ見えた。
田沼の声で空から慌てて視線を戻すと、すでにあなたの名字は背を向けて走り出していた。
反射的に俺たち二人も駆け出す。
学校の敷地内に妖が現れるなんて、別に珍しいことではない。
あなたの名字だって日常的に目にしているはずだ。
なのにどうして…
そこまで考えて、ハッと息をのむ。
隣を走る田沼も同じ考えのようで、緊張した面持ちで俺を見る。
どう見たって、今のあなたの名字は普通じゃない。
何とか止めようと声をかけ続けるが、俺たちの声はまったく耳に入っていないらしい。
走りながら大声を出しているせいで、だんだんと息が上がってきた。
以前、廊下でもこうして彼女を追いかけたことがあったが、その時もなかなか追いつけなかったのを思い出す。
そうこうしているうちに、白い何かが飛んで行った辺りへ差し掛かかろうとしていた。
すると、視界の端でごみ袋を抱えた誰かが驚いたようにこちらへ駆け寄って来るのが見えて、少しだけ足を緩める。
俺の剣幕にただならぬ事態だと察したのか、タキはごみ袋を放り投げるとそのまま俺たちと一緒に走り出す。
タキは混乱しながらも神妙な顔で頷いた。
その時だった。
またもや、以前と同じように二人分の悲鳴が聞こえてきた。
あなたの名字と…やけに間抜けな、それでいて聞き覚えのある…
角を曲がると、そこには想像した通りの光景が広がっていた。
地面に尻もちをつくあなたの名字と、激突したであろう腹の辺りをさすりながら憤慨するニャンコ。
…周りに誰もいなくて、本当に良かった。
スカートについた砂を払いもせず、あなたの名字はキョロキョロと忙しなく辺りを見回す。
その目には、焦りと戸惑いの色が濃く浮かんでいた。
あなたの名字を祟った妖は確か老婆のような姿だと聞いていたので、ひとまずホッとする。
でも、それならなぜこんなに慌てているのだろうか。
いつの間にかタキの手から逃れていた先生が、森の方を顎で指す。
そう聞くや否や、あなたの名字は何の躊躇いもなく目の前の裏門を飛び出し、森の中へと駆け出した。
虚をつかれた俺たちは出遅れるも、訳も分からないまま再びその背中を追う。
視界が悪く獣道も多い森の中は、ただでさえ女子が入り込むのはあまり勧められたものではないのに、強い妖力を持つ者となれば良からぬ妖を惹きつけかねない。
俺は辺りを注意深く見渡しながら、あなたの名字を見失わないよう田沼とタキにも目で合図をする。
俺たちのことなどまるで見えていない様子で、あなたの名字は四方へ向けて名を呼んでいた。
その声はとても必死で、心の奥から絞り出すような切なげなものだった。
それほど、大切な妖なんだろうか。
そう言って先生が目を向けたのは、3メートルほどの高さの崖を隔てた向こう側だった。
崖の前に跪いて足を伸ばそうとするあなたの名字の腕を慌てて掴む。
一瞬で心臓がヒヤリと冷えるのを感じた。
半ば押さえつけるような形になりながら、三人であなたの名字の動きを止める。
こちらを振り返ったあなたの名字の表情は大きく歪んでいて、透けるような灰色の瞳から今にも涙がこぼれ落ちそうに見えた。
そう言いつつも、先生はすぐに招き猫から元の妖怪の姿へと戻る。
それを見たあなたの名字は、驚いたように目を丸くしていた。
大きな風を巻き起こしながら軽々と崖を飛び越え、森の向こう側へと消えていった先生は、1分もしないうちにすぐ戻って来た。
口に、白いねずみの妖怪を咥えて。
あなたの名字の張り詰めた表情がみるみる緩み、やがて落胆に近い色を見せる。
正確には妖違い、と言えばいいのだろうか。
ともかくあなたの名字が無我夢中で追っていたのは、彼女が思い描いていたのとは別の妖だったようだ。
招き猫の姿に戻った先生は、元々目つきの悪い目を更につり上げてあなたの名字に食ってかかる。
先生とねずみの妖に謝りながら、あなたの名字は力なく笑った。
その笑顔があまりにも寂しそうで、先ほど必死に妖の名を呼んでいた彼女の横顔が頭をよぎる。
会えないって、なぜ?
とっさに口を開きかけたけど、すぐに噤んだ。
そう聞いたら、彼女を傷つけてしまう気がしたから。
辺りを見回したあなたの名字の目が、一点で止まったまま固まる。
どうやら、今初めてタキの存在に気がついたらしく、口をパクパクさせたり、あたふたと目を泳がせたり。
少し意地が悪いかもしれないが、そんな風にあからさまに焦っている姿が、ちょっと可愛らしく思えてしまった。
ぎこちなくはあるが、あなたの名字が俺たち以外とこんなに話しているところなんて、初めて見たかもしれない。
なんだかホッとした。
あなたの名字はきっと、タキを巻き込みたくないと言うだろうけど。
俺では上手く伝えられないいろんな思いを、タキなら優しい言葉で包んで届けてくれるんじゃないだろうか。
閉じ込められたあなたの名字の心の内を、そっと引き出してくれるんじゃないだろうか。
少し頬を紅潮させて、戸惑いながらもどこか楽しそうにしているあなたの名字を見ていたら、そんなことを思った。
編集部コメント
主人公は鈍感で口下手ではあるものの『コミュ障』というほどではないので、キャラの作り込みに関しては一考の余地があるものの、楽曲テーマ、オーディオドラマ前提、登場人物の数などの制約が多いコンテストにおいて、条件内できちんと可愛らしくまとまっているお話でした!<br />転校生、幼馴染、親友といった王道ポジションのキャラたちがストーリーの中でそれぞれの役割を果たし、ハッピーな読後感に仕上がっています。