「今日、帰り遅くなるかも」
兄からのメッセージを、私は布団の中で何度も見返した。
その文字だけで、胸が重くなる。
「そっか……」
少しため息をついて、枕に顔をうずめる。
兄は、忙しい人だ。
仕事のために外に出るのは、当たり前のこと。
でも、今日に限っては、
胸の奥にぽっかり穴が開いたようだった。
夕方、家の電話が鳴った。
兄の友達からだと思ったけれど、出る勇気はなかった。
――聞こえてしまうのが怖い。
リビングから聞こえる、笑い声。
電話の声が誰と話しているのか、耳を澄まさなくてもわかる。
――女の人。
心臓が、痛いほど早く打った。
兄は自然に笑っている。
私には見せない、優しい声。
「……そっか、ありがとう」
短いやり取りだけでも、
私は胸をぎゅっと握られたような気分になる。
夜になって、玄関のドアが静かに閉まる音。
兄が帰宅したのだと思った。
「ただいま……」
でも、声は少し疲れている。
楽しそうな電話の後だから、余計に違和感を覚える。
「おかえり」
私は平静を装って答える。
見上げると、兄は微笑んだ。
でも、その笑顔には、さっきの電話の余韻があった。
「ごめん、遅くなって」
「大丈夫」
私は布団を片付けながら、何気ない返事をする。
本当は、大丈夫じゃないのに。
「なんか、楽しそうだったね」
思わず口に出してしまう。
兄は少し驚いた顔をして、首をかしげる。
「そう? まあ、少しね」
軽く笑って、そのままテレビをつける。
私はその背中を見ながら、そっとため息をつく。
――近すぎる距離にいるのに、
知らない世界がある。
私は妹だから、
その世界には踏み込めない。
でも、心は勝手に痛む。
布団に入って、天井を見つめる。
兄が誰かを大事にしていること。
その声を、知らずに聞いてしまったこと。
胸の奥が、まだざわざわしている。
「……私には、何もできない」
そう小さく呟いて、目を閉じる。
それでも、
明日も同じ距離で、笑い合うだろう。
それが、妹としての、唯一の役目だから。












編集部コメント
依頼人の悩みや不安に向き合うカウンセラーという立場の主人公が見せる慈愛にも似た優しい共感と、その裏にひそむほの暗い闇。いわゆる正義ではないものの、譲れない己の信念のために動く彼の姿は一本筋が通っていて、抗いがたい魅力がありました!