絶望は、黒い潮となって九州北部に押し寄せた。
8月17日未明。福岡県糸島市の岐志(きし)漁港、福岡市西区の今津海岸。かつて穏やかな波が打ち寄せていた砂浜は、揚陸艇から吐き出された無数の兵士と装甲戦闘車両によって、瞬く間に蹂虙されていく。
「撃て、撃ち続けろ!奴らを一枚岩にするな!」
陸上自衛隊第4師団第16普通科連隊の陣地が置かれた生の松原で、初老の曹長が絶叫した。隊員たちは、配備されたばかりの新型の20式小銃を固く握りしめ、松林の陰から応戦する。だが、敵の数はあまりにも多かった。夜の闇を切り裂いて飛来する対戦車ミサイルが、友軍の軽装甲機動車を次々と鉄屑に変えていく。
「小隊長!左翼が崩れます!敵のドローンだ!」
「くそっ、空はまだか!」
航空支援を求める無線の叫びも、敵の強力な電子妨害によって虚しく掻き消される。羽瀬蘭(ラテ)率いる航空自衛隊は、南西諸島での壊滅的な打撃から態勢を立て直す間もなく、九州の空に現れた敵機の大群と死闘を繰り広げていたが、制空権はまだ敵の手にあった。
地獄は、軍人だけのそれではなかった。
「た、助けてくれぇ!」
上陸地点に程近い福岡市西区の住宅街では、避難が間に合わなかった住民たちが、阿鼻叫喚の渦に叩き込まれていた。敵兵は、抵抗する者はおろか、逃げ惑う老人や女子供にさえ、無慈悲な銃口を向けた。建物の窓という窓が内側から発光し、断末魔の叫びが夜の住宅街に木霊する。それは戦闘ではなく、一方的な虐殺だった。SNSには、スマートフォンで撮影されたその惨状が、黒煙と炎、そしておびただしい血痕と共に、断片的にアップロードされては、"アマテラス"の検閲をすり抜けて拡散していく。
首相官邸、地下危機管理センター。モニターに映し出される九州からの惨状を睨み据え、経済安全保障担当大臣の高市早苗が、震える声で呟いた。その言葉に、誰もが同意せざるを得なかった。
河野太郎防衛大臣が、怒りを露わに机を叩いた。
阿形芽衣の静かな問いに、岸田文雄は重い口を開いた。
内閣情報官・中畑得羽が、冷静な声で報告を始めた。
阿形は、静かに、しかし断固たる口調で言った。
松野博一官房長官が声を上げる。
阿形の決意は揺るがなかった
午後8時。全ての放送が中断され、徳仁天皇の穏やかで、しかし芯の通った声が日本中に響き渡った。『…政府と国民が一体となって、この事態に対処していくことを、心から願っています…』。その祈りの言葉は、絶望に沈む人々の心に、小さな、しかし確かな灯りを灯した。
そしてその直後。スマートフォンに『Nippon-Link』からの通知が届く。
画面に現れた阿形芽衣は、毅然とした表情で、国民に語りかけた。
彼女は、敵の非道を明確に非難した上で、国民に三つのことを約束した。「決して屈しないこと」「決して諦めないこと」「決して孤独にはしないこと」。その力強い演説は、天皇陛下によるメッセージによって灯された国民の心の灯を、反撃の意志を秘めた燃え盛る炎へと変えていった。
2026年8月20日 午前10時00分 東京・国会議事堂 本会議場
そこは、静寂と熱狂が矛盾したまま同居する、異様な空間と化していた。
日本の立法府の中枢、国会議事堂・本会議場。普段ならば議員たちの怒号と野次が飛び交うその場所は、国内外から緊急招集された数百人の記者たちで埋め尽くされ、無数のカメラのフラッシュがまるで真夏の雷光のように絶え間なく明滅していた。しかし、あれほど騒がしかったはずの彼らの口は固く結ばれ、議場は水を打ったような静寂に包まれていた。
すべての視線が注がれる先、議長席のさらに上段。そこに、天皇陛下がお立ちになっていたからだ。
モーニングに身を包まれた陛下は、ただ静かに、国民の代表たる議員たちが座るべき席、そしてその向こうにいるであろう国民の姿を見つめておられた。政府からの奏上を受け、陛下自らが「国民が最も不安な時に、その代表が集う場所を見届けたい」と臨席を望まれたという。そのお姿は、千年以上続くこの国の歴史と権威の、静かなる顕現だった。いかなる政治的混乱や妨害も、この御前では許されない。その無言の圧力が、議場の空気を支配していた。
やがて、演壇に内閣総理大臣、阿形芽衣(めめんともり)が立った。彼女の後方には、与党の閣僚たちに加え、昨日まで政敵であったはずの枝野幸男、馬場伸幸、玉木雄一郎ら野党党首たちが、一様に固い表情で並んでいる。その前代未聞の光景に、記者たちが息を呑んだ。
阿形の声は、マイクを通して議場の隅々にまで、そして電波に乗って日本全土へ、さらには世界中へと届けられた。その声は若き女性指導者のものとは思えぬほどに重く、そして揺るぎない覚悟に満ちていた。
彼女は、後ろに立つ野党党首たちと力強く頷き合い、歴史的な宣言を高らかに告げた。
議場が、どよめきに揺れた。政党の枠組みを超えた、戦時における統一会派の結成。それは、日本の憲政史を根底から揺るがす、革命的な宣言だった。
阿形は、国民の不安を先読みするように言葉を継いだ。
国民が、国家の暴走を監視する仕組みは残す。その明確な意思表示に、どよめきは徐々に静まっていった。
案の定、一部の記者からは、挙国一致体制を「大政翼賛会の再来」「言論統制だ」と批判する声が上がった。だが、阿形は微塵も動じなかった。
凛とした声が議場に響き渡った。返す言葉を失った記者を尻目に、今度は野党党首である野田が阿形の隣でマイクを握った。
その歴史的会見のニュースは、最前線にも届いていた。
激しい市街戦の最中、瓦礫の山と化した建物の陰で、AAV7の車載ラジオから流れる国会中継を聞いていた松川宮(ぐさお)は、不屈の笑みを浮かべた。
自分たちは見捨てられてはいなかった。後方の政治家たちも、そして国民も、一つになって戦おうとしている。その事実が、燃え尽きかけていた彼らの心に、最後の燃料を投下した。
ぐさおは、血と埃にまみれた顔で、生き残った部下たちを鼓舞した。
その声は、絶望の戦場に響き渡る、反撃の狼煙だった。蒼い炎は、まだ消えてはいなかった。それは今、故郷を焼かれた怒りと、国民と共にあるという誇りを力に変え、九州の大地で、紅蓮の炎となって燃え上がろうとしていた。
それは佐世保港の地獄から、さらなる地獄へと向かう、絶望的な死の回廊だった。五島列島での激しい防衛戦の末、本土への撤退を成功した松川宮(ぐさお)率いる水陸機動団の残存部隊は、敵の飽くなき追撃の真っ只中にいた。夜の闇と荒れ狂う嵐が、彼らの絶望をさらに深いものにしていた。
「総監! 後方より敵攻撃ヘリ『Z-10』、多数接近! 対戦車ミサイルの射線に入ります!」
「右舷より高速ミサイル艇! レーダー照射を確認! 魚雷警報!」
AAV7(水陸両用車)の狭い車内に、若い隊員の悲鳴のような報告と、無機質な警告音が鳴り響く。空から、海から、死の牙が絶え間なく襲いかかってきた。AAV7の上面に装備された重機関銃が、赤い曳光弾の鞭を闇夜に走らせるが、マッハの速度で飛来するミサイルや、海中から迫る魚雷の前には、あまりにも無力だった。
一両、また一両と、僚車が閃光と共に巨大な火柱を上げて海に沈んでいく。その度に、部隊の無線ネットワークからは、仲間たちの断末魔が響き渡った。
『うわあああ! 脚が! 俺の脚が!』
『かあ……さん……』
『天皇陛下…万歳……ッ!』
ぐさおはその声を、悲鳴を、歯を食いしばって聞き届けた。忘れない。この声も、痛みも、決して忘れはしない。この借りは必ず十倍にして返す。それだけが指揮官である彼女を狂気の淵から引き留める、唯一の楔だった。
自らを鼓舞するように叫ぶ彼女の脳裏に、この絶望的な状況を打開する一縷の望みが浮かんだ。
彼女は同行していた通信兵に怒鳴った。柊木日菜(ヒナ)と柊木瑠夏(ルカ)。陸自航空隊が誇る、攻撃ヘリと輸送ヘリのエースパイロット兄妹。彼らなら、この状況を何とかしてくれるかもしれない。
だが、通信兵の答えは無情だった。
「敵の電子妨害が酷く、連絡が取れません! それに、この悪天候では、ヘリが飛べるはずが……」
その言葉をかき消すように、凄まじい轟音が響き渡った。雲の切れ間、一瞬だけ姿を見せた月光を背に、漆黒の機体が躍り出たのだ。AH-64Dアパッチ・ロングボウ。陸上自衛隊が誇る、最強の戦闘ヘリコプター。
快活だが、緊張に満ちた若い女性の声。柊木日菜(ヒナ)一尉だった。
次の瞬間、アパッチのスタブウィングからヘルファイア対戦車ミサイルが数珠繋ぎに放たれ、追撃してきていた敵のミサイル艇を次々と正確に貫いた。海上に、いくつもの巨大な火球が咲き誇る。
無線から兄であるルカの制止する声が聞こえる。
ヒナのアパッチはぐさおたちの頭上をかすめ飛ぶと、敵の攻撃ヘリ部隊に真正面から突っ込んでいった。30mmチェーンガンが火を噴き、敵機を蜂の巣にする。だが、敵の数はあまりにも多すぎた。数機のZ-10が、即座にアパッチに狙いを定める。
悲鳴のような声を残しヒナのアパッチは機体を翻して嵐の向こうへと消えていった。ほんの数十秒の援護。だがその時間稼ぎは、ぐさおの部隊にとってまさに神風だった。敵の包囲網にわずかな亀裂が生じたのだ。
反撃の狼煙は、しかし、あまりにも儚かった。
松川宮(ぐさお)率いる水陸機動団の残存部隊は、佐世保に上陸後、地の利を活かしたゲリラ戦を展開。敵の補給路を断ち、指揮系統を混乱させるなど局所的な戦果を挙げ、後続の第4師団が防衛線を展開するまでの貴重な時間を稼ぎ出した。だが、それは圧倒的な物量差という現実を覆すには至らない、焼け石に水のような抵抗だった。
「総監! 弾薬が尽きます! 予備はもうありません!」
「負傷者の後送が追いつかない! 衛生隊が包囲された!」
旧海軍墓地のある東公園に構築した makeshift(間に合わせ)の指揮所で、部下たちの悲鳴に似た報告が飛び交う。ぐさおは、血走った目で地図盤を睨みつけていた。佐世保の地図に引かれた赤い矢印(敵軍)は、青い円(友軍)を幾重にも取り囲み、その包囲網は刻一刻と狭まっていた。
ぐさおが、通信兵に怒鳴る。自衛隊最強の特殊部隊、山田善(ぜんこぱす)率いる特殊作戦群。彼らならば、この膠着した戦況を動かす「何か」をやってのけるはずだ。
その頃、山田善と彼の部下たちは、佐世保から数十キロ離れた敵の後方連絡線、西九州自動車道に潜んでいた。雨に濡れたギリースーツで偽装した彼らは、夜の闇と完全に一体化していた。
「ターゲット、ロック。いつでもいける」
スコープを覗く狙撃手からの短い報告を受け、山田は口元の小型マイクに囁いた。
彼の視線の先、ライトを煌々と照らした敵の燃料輸送車列が、無防備に橋梁へと進入してくる。山田の瞳が、獲物を狩る爬虫類のように冷たく光った。
その一言を合図に、静寂は破られた。対物ライフルから放たれた一発の弾丸が、先頭車両のエンジンブロックを正確に貫く。同時に、橋脚に仕掛けられた指向性爆薬が炸裂。橋は轟音と共に崩れ落ち、後続の車両は為すすべもなく火の玉となって谷底へ折り重なっていった。敵の兵站に、致命的な一撃。だが、それは九州北西部という巨大な戦場における、ほんの小さな一齣に過ぎなかった。
戦況は、絶望的に悪化の一途をたどっていた。
福岡市は、上陸からわずか三日で市街地の大部分が敵の手に落ちた。航空自衛隊春日基地は陥落し、博多港も制圧され、敵はそこを橋頭堡として、九州全土へと侵攻の牙を伸ばし始めていた。
そして、その牙は、日本の魂に、より深く、癒しようのない傷を刻みつける。
8月23日 長崎市
人類の愚かさの象徴である、あの夏の日の記憶を今に伝える平和公園。その丘の上から、敵の122ミリ自走榴弾砲が、無慈悲な砲弾を吐き出した。目標は、軍事施設ではない。浦上の丘に静かに佇む、白亜の教会だった。
ヒュルルル―――ッ。
甲高い飛翔音とともに、着弾。
浦上天主堂の、かつて原爆の熱線で焼け落ち、戦後に市民の祈りによって再建された双塔が、いとも容易く崩れ落ちた。続いて、二百年以上にわたる禁教の時代を、信徒たちが命を懸けて守り抜いてきた信仰の証、大浦天主堂にも砲弾が突き刺さる。ステンドグラスが砕け散り、聖人たちの像が瓦礫と化していく。
その模様は、敵のプロパガンダ部隊によって撮影され、全世界に配信された。
『抵抗を続ける日本の愚かな指導者たちによって、歴史的遺産が失われていく』
そんなメッセージと共に。それは、日本の精神的支柱を破壊し、国際社会の同情を失わせ、厭戦気分を煽るための、悪魔的な情報戦だった。
同日 首相官邸・地下危機管理センター
「……許さん。断じて、許さんぞ……!」
メインスクリーンに映し出される、燃え盛る教会の映像。それを見ていた麻生太郎副総理の顔が、怒りで赤く染まっていた。彼自身、敬虔なカトリック教徒として知られる。その信仰の対象が、故郷である九州の地で蹂躙されている。その怒りは、察するに余りあった。
高市早苗が、唇を震わせる。
その時、岸田外務大臣から、一条の光とも言える報告がもたらされた。
旧戦の同盟国や、親日を公言する国々からの支援。それは、軍事的には孤立無援の日本にとって、何よりも心強い「友情」の証だった。
阿形は深く頷いた。「だが友情だけでは戦争には勝てない」と、心の中で付け加える。
戦況は、もはや精神論で覆せる段階をとうに超えていた。
その重い空気を切り裂いたのは、陸上幕僚長の松本玲里だった。彼女の顔は、これから口にする言葉の重さに、蒼白になっていた。
河野防衛大臣が叫ぶ。
玲里は、地図盤を指し示しながら、恐るべき作戦の骨子を語り始めた。
「狂っている!」
「自衛隊が国民の財産を破壊するなど、本末転倒だ!」
閣議室は、反対の怒号で満ち溢れた。自らの故郷を焼くという非情な作戦に、閣僚たちが賛同できるはずもなかった。
その時、それまで沈黙を守っていた阿形が、静かに、しかし氷のように冷たい声で言った。
その一言で、議場の騒音が嘘のように静まった。
阿形は、閣僚たち一人一人の目を見据えながら、続けた。
彼女は、静かに問いかけた。
誰も、何も言えなかった。阿形の冷徹な比喩は、この作戦の本質を、そしてそれ以外の選択肢がないという現実を、的確に突きつけていた。
玲里は涙を堪え、震える声で敬礼した。
受話器の向こう、佐世保の地下壕で、ぐさおが玲里からの命令を聞いていた。
ぐさおの口から、か細い声が漏れた。
ぐさおは、言葉を失った。敬愛する上官の、苦渋に満ちた声。その痛みは痛いほど伝わってきた。そうだ、一番辛いのはこの決断を下した玲里さんや、総理なのだ。
現場の指揮官である自分が、ここで感情的になってどうする。
その声は、驚くほど冷静だった。
彼女は、指揮所の外に広がる、炎に照らされた故郷の街並みを、その目に焼き付けた。
西九州の空が、夕焼けで、燃えるように赤く染まっていた。それは、これから始まる、あまりにも悲しい、しかし未来を繋ぐための、壮絶な撤退戦を暗示する色だった。







![❀ 春一番に思いを乗せて [ 小説・イラストコンテスト ]](https://novel-img-gcs.prepics-cdn.com/prcmnovel-tokyo-prod-assets/static-images/novel-cover/season/mid-season-23.jpg)




編集部コメント
依頼人の悩みや不安に向き合うカウンセラーという立場の主人公が見せる慈愛にも似た優しい共感と、その裏にひそむほの暗い闇。いわゆる正義ではないものの、譲れない己の信念のために動く彼の姿は一本筋が通っていて、抗いがたい魅力がありました!