第8話

隠れたるより見るるは莫し
59
2021/01/31 11:53
「お早う」
「……」

翌朝。一言も喋らない朝は初めてだった。ここに来た最初の朝でさえ挨拶を交わしたのに、今日は昨晩の事件のせいで彼に怒り、後悔し、失望し、おはようを言う気にもならなかった。当の本人は、まるで何事もなかったかのように二人分のコーヒーをテーブルに運んでいる。そのミステリアスな表情からは、何も読みとることができない。
それでも動向を注意深く観察しながら、黙って用意された朝食を食べる。

このことを、彼はどう思っているのだろうか。彼自身も、これが常軌を逸しているということは分かっているはずだ。もしかしたら何か事情があるのかもしれない。ただ──────
人を殺さなければならない事情など、あるはずがない。いかなる理由でも、人を殺してはいけない。それが常識であり、普通であり、倫理である。俺たちは、常にそう教えられてきた。

彼は一体──────

特に何もしないまま、一日が過ぎる。俺がスマホをいじる間、彼はテレビのニュースを見ながら何か考え事をしている。

もしかしたら、昨日のは幻覚だったのではないか?
あまりにも今日がありふれた生活すぎて、ついにはそんな風に思えてきた。

実際、彼が人を殺したというのはただの決めつけであり、論理的根拠は無い。もしかしたら彼も居合わせた人のひとりかもしれないし、血を見て楽しむような人でもないのかもしれない。

このままでいるべきか否か──────
迷いが生まれたその時、彼が動いた。

ソファーで隣に座る彼がおもむろに立ち上がり、置いてあったハサミを手に取ると、まるでささくれを取るかのように無造作に、皮膚に傷を付ける。深くまで刃が入ってしまったのか、つーっと鮮血が指を伝う。ティッシュで拭けばいいものを、彼はやはり陶酔したようにそれに見入っている。

認めたくない、認めたくない!
好意からかそう思ってしまうのに、否定しがたい証拠がここにはある。安定した楽しい暮らしを取るか、それとも自分の正義を貫くか──────
何度も思いを伝えようと口を開くも、そこから出てくるのは湿った空気だけだ。

「貴殿は──────なにか、おれに言いたいことがあるようだな」
「……っ」
「そう、貴殿も薄々感づいているとおり、おれはここ数日の事件を引き起こした犯人だ」
「…何でこんなことするんだよ」
「それは貴殿も知っているだろう」
「分かってるなら止められるだろ、こんなの。これからも続けるんだったら、こんな家出てって……」
刹那、彼が人差し指を立て、俺の口元に近づけた。
最初に会ったときと同じだ。また、彼のペースに乗せられる……!
「出て行く、と?これから貴殿はどうするかも決まっていないのに、いきなりそう言い出すとは無責任にも程がある。それに──────」
図星だった。
「条件次第では、これに関わるいっさいの行為を止めようとも思ったのだが……」
「何だよ、条件って……」
彼にもまだ更生しようという意志はあるらしく、安堵した。しかし、俺は次の言葉を聞いて絶句した。

「俺の彼氏になること」

「彼氏!?…んだよそれ、頭狂ってんだろ」
馬鹿げている。俺は彼に好意は持っていたが、好きな訳じゃなくて……そんな成立もしない自己理論が、己の脳内を駆けめぐる。
「…おれは貴殿のこと、嫌いではないが?」
「そういう問題じゃないんだよ。そもそも……」
そう言いかけたとき、ふいに彼の唇が俺のと──────

「……3日だけ、時間をくれないか」

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