第12話

.
606
2025/06/02 01:01 更新






昼休み、教室の窓際で柾哉がジュースの缶を片手に何気ない口調で話し始めた。



「ねぇ京介。聞いたことある?この学校で前に変な事件があったって」



俺はプリントに書きかけていたペンの先を止めた。
何気ない世間話のようで、どこか湿った声だった。



『……事件?』



「って言っても、警察沙汰になったとかそういうのじゃない。でも、なんか……妙なんだよね」



柾哉は窓の外をぼんやり見ながら、声のトーンを落とした。



「図書館でさ。結構前の話らしいんだけど……誰も気づかないうちにひとり亡くなってたってさ」

 

『……は?』

 

俺は思わず言葉を飲み込んだ。


教室には他のクラスメイトの笑い声が響いていたけど、その瞬間、音が少し遠のいたように感じた。



「本読んでたらしいんだよね。窓際のいちばん端の席で。誰にも話しかけられない感じの静かな人だったって」

 

『……で、どうなったんだよ』

 

柾哉は缶をくるくると回しながら苦笑いした。


「いや、ほんとに気づかれなかったらしいよ。放課後、先生が巡回しててようやく見つけたって。それまで何時間も誰も話しかけなかった。……なんか、かわいそうだよね」

 

かわいそう。



その言葉に、俺の胸の奥で何かが反応した。



ザラリとした記憶の欠片が、どこかで擦れたような感覚。


思い出せそうで思い出せない。
名前も、顔も、ぼやけている。

 

『その……亡くなったやつって、名前は?』

 

「さあ? 聞いたことない名前だった気がするけど……“タカツカ”とか、そんな感じだったような」

 

頭の中で何かが揺れた。



“タカツカ”。



どこかで聞いた。聞いたことがある気がする。



でもそれが何なのかが思い出せない。
映像のピントが合わないみたいに、目の奥がもやもやと霞む。



胸のあたりがざわついた。
何かを忘れてはいけないような、そんな焦り。
けれど、その“何か”がどうしても浮かんでこない。

 

「京介、顔色悪いけど…大丈夫?」

 

『あ…いや、大丈夫』

 

苦笑いでごまかしながら、俺は目を伏せた。



机の上の文字がにじんで見える。
声も遠くなる。


まるで、夢のなかで何かを追いかけているような感覚。


何か大切なことを忘れている気がする。
誰かの声が耳の奥にこだまする気がする。

 




『先生、ここどうぞ』

 




誰かが言っていた。
けれど、それが“誰”なのかが思い出せない。

 



“もうすぐ消えるのかな”――



 

どこかで聞いたその言葉に、胸の奥がぞわりと冷たくなる。


でも、その声の主が誰なのかも分からない。



どれだけ思い出そうとしても、脳がそこだけ拒否するように霧の中に沈んでいく。



俺のなかには確かにその誰かがいたはずだった。


毎日のように会っていた。


同じ空気のなかにいた。


言葉を交わして、何かを託されて――

 

なのに、今はもう。
その人の名前すら出てこない。

 

『…なあ、柾哉』

 

「ん?」

 

『そいつ、なんで亡くなったんだろうな』

 

柾哉は少しだけ表情を曇らせた。



「さあ……そこまでは聞いてない。ただ、机の上にノートがあって……最後のページに、ちっちゃい字で“もう死にたい”って書いてあったらしい」

 

心臓が、ひとつ跳ねたように鳴った。


ノート。
小さな文字。
“死にたい”――



何かが脳の奥でぶつかった気がした。


柾哉は何も知らずに、軽い調子で言う。


「まあ都市伝説っぽいけど。俺も人づてに聞いただけだし。でも、なんかさ……あんま笑えないよね、そういうのって」

 

笑えない。
たしかに、笑えなかった。


むしろ怖かった。


その話が“誰かのこと”だって、どこかで知っている気がした。


誰かがここにいた。確かに、俺の近くに。


でも、誰なんだ。


思い出せない。
それが恐ろしくてたまらなかった。

 

授業のチャイムが鳴った。


教室がざわざわと動き出す。


椅子の音。笑い声。


俺の心だけが、その喧騒に取り残されていた。

 









その日の放課後。



俺は何も考えずに図書室の前に立っていた。



どうしてここに来たのかも分からない。
でも、足が勝手に動いた。



ドアを開ける勇気はなかった。
ただそこに立っていた。


何も思い出せないまま、ドアの木目をじっと見つめていた。

 

まるで、記憶の奥底に沈んだ“何か”が
この先に眠っているかのように。

 

──だけど、まだ。


俺の心はほんの一歩、届かない場所にいた。

 

沈黙の扉の向こう。



誰かの声は、まだそこで待っている。






プリ小説オーディオドラマ