昼休み、教室の窓際で柾哉がジュースの缶を片手に何気ない口調で話し始めた。
「ねぇ京介。聞いたことある?この学校で前に変な事件があったって」
俺はプリントに書きかけていたペンの先を止めた。
何気ない世間話のようで、どこか湿った声だった。
『……事件?』
「って言っても、警察沙汰になったとかそういうのじゃない。でも、なんか……妙なんだよね」
柾哉は窓の外をぼんやり見ながら、声のトーンを落とした。
「図書館でさ。結構前の話らしいんだけど……誰も気づかないうちにひとり亡くなってたってさ」
『……は?』
俺は思わず言葉を飲み込んだ。
教室には他のクラスメイトの笑い声が響いていたけど、その瞬間、音が少し遠のいたように感じた。
「本読んでたらしいんだよね。窓際のいちばん端の席で。誰にも話しかけられない感じの静かな人だったって」
『……で、どうなったんだよ』
柾哉は缶をくるくると回しながら苦笑いした。
「いや、ほんとに気づかれなかったらしいよ。放課後、先生が巡回しててようやく見つけたって。それまで何時間も誰も話しかけなかった。……なんか、かわいそうだよね」
かわいそう。
その言葉に、俺の胸の奥で何かが反応した。
ザラリとした記憶の欠片が、どこかで擦れたような感覚。
思い出せそうで思い出せない。
名前も、顔も、ぼやけている。
『その……亡くなったやつって、名前は?』
「さあ? 聞いたことない名前だった気がするけど……“タカツカ”とか、そんな感じだったような」
頭の中で何かが揺れた。
“タカツカ”。
どこかで聞いた。聞いたことがある気がする。
でもそれが何なのかが思い出せない。
映像のピントが合わないみたいに、目の奥がもやもやと霞む。
胸のあたりがざわついた。
何かを忘れてはいけないような、そんな焦り。
けれど、その“何か”がどうしても浮かんでこない。
「京介、顔色悪いけど…大丈夫?」
『あ…いや、大丈夫』
苦笑いでごまかしながら、俺は目を伏せた。
机の上の文字がにじんで見える。
声も遠くなる。
まるで、夢のなかで何かを追いかけているような感覚。
何か大切なことを忘れている気がする。
誰かの声が耳の奥にこだまする気がする。
『先生、ここどうぞ』
誰かが言っていた。
けれど、それが“誰”なのかが思い出せない。
“もうすぐ消えるのかな”――
どこかで聞いたその言葉に、胸の奥がぞわりと冷たくなる。
でも、その声の主が誰なのかも分からない。
どれだけ思い出そうとしても、脳がそこだけ拒否するように霧の中に沈んでいく。
俺のなかには確かにその誰かがいたはずだった。
毎日のように会っていた。
同じ空気のなかにいた。
言葉を交わして、何かを託されて――
なのに、今はもう。
その人の名前すら出てこない。
『…なあ、柾哉』
「ん?」
『そいつ、なんで亡くなったんだろうな』
柾哉は少しだけ表情を曇らせた。
「さあ……そこまでは聞いてない。ただ、机の上にノートがあって……最後のページに、ちっちゃい字で“もう死にたい”って書いてあったらしい」
心臓が、ひとつ跳ねたように鳴った。
ノート。
小さな文字。
“死にたい”――
何かが脳の奥でぶつかった気がした。
柾哉は何も知らずに、軽い調子で言う。
「まあ都市伝説っぽいけど。俺も人づてに聞いただけだし。でも、なんかさ……あんま笑えないよね、そういうのって」
笑えない。
たしかに、笑えなかった。
むしろ怖かった。
その話が“誰かのこと”だって、どこかで知っている気がした。
誰かがここにいた。確かに、俺の近くに。
でも、誰なんだ。
思い出せない。
それが恐ろしくてたまらなかった。
授業のチャイムが鳴った。
教室がざわざわと動き出す。
椅子の音。笑い声。
俺の心だけが、その喧騒に取り残されていた。
その日の放課後。
俺は何も考えずに図書室の前に立っていた。
どうしてここに来たのかも分からない。
でも、足が勝手に動いた。
ドアを開ける勇気はなかった。
ただそこに立っていた。
何も思い出せないまま、ドアの木目をじっと見つめていた。
まるで、記憶の奥底に沈んだ“何か”が
この先に眠っているかのように。
──だけど、まだ。
俺の心はほんの一歩、届かない場所にいた。
沈黙の扉の向こう。
誰かの声は、まだそこで待っている。












編集部コメント
依頼人の悩みや不安に向き合うカウンセラーという立場の主人公が見せる慈愛にも似た優しい共感と、その裏にひそむほの暗い闇。いわゆる正義ではないものの、譲れない己の信念のために動く彼の姿は一本筋が通っていて、抗いがたい魅力がありました!