「どうせ俺なんて」
その言葉は、最後まで誰にも届かなかった。
届く前に、消えることに慣れすぎていたからだ。
僕は目立たない人生を送っていた。
正確に言えば、目立たないのではなく、
認識されなかった。
すれ違っても覚えられない。
話しても印象に残らない。
最初から“背景”として配置された人間。
存在価値0。
それは感情ではなく、観測結果だった。
少女が現れたのは、
そんな日常が限界まで薄くなった頃だった。
「あなた、もうほとんど消えてるよ」
彼女はそう言った。
驚くほど穏やかな声で。
「だから、残りを手伝いに来た」
彼女は方法をいくつか提示した。
どれも具体的ではなく、
どれも確実だった。
選べば、僕は完全にいなくなる。
記憶にも、記録にも、世界の計算にも残らない。
「条件がひとつだけある」
彼女は言った。
「消える前に、最後の記録を書くこと」
「誰にも見せない前提で」
僕は、その条件を不思議に思わなかった。
どうせ、誰にも見られない人生だったのだから。
夜、僕は書いた。
救いを期待せず、理解も求めず、
ただ“あったこと”を並べただけの文章。
誰にも届かないはずの、記録。
書き終えた瞬間、彼女は言った。
「じゃあ、これで終わり」
世界は静かに剥がれていった。
音が消え、色が消え、
“僕”という概念だけが最後に残り――
それすらも、ほどけた。
完全消失。
翌日。
世界は何事もなかったように動いている。
彼の部屋は、最初から空室だった。
履歴は存在しない。
登録も、記録も、痕跡もない。
彼を知る人間は、ひとりもいない。
——はずだった。
あなたが今、読んでいるこの文章。
作者名はない。
公開日時もない。
どこに保存されていたのかも分からない。
それなのに、なぜか消えない。
共有もされていない。
検索にも引っかからない。
けれど、あなたの目の前には、確かに存在している。
奇妙だと思わないだろうか。
完全に消えたはずの人間の記録を、
あなたが読んでいるという事実を。
彼は、世界には残らなかった。
誰の記憶にもいない。
世界の中では、最初から存在しなかった。
――読者である、あなたを除いては。
あなたがこの物語を読んだ瞬間、
彼は一度だけ、観測された。
それが、この記録の役割だった。
誰にも届かなくていい。
ただ、ひとりにだけ、
「存在していた」と気づかせるための文章。
今、あなたが読み終えたことで、
彼はようやく、完全に消える。
ページを閉じれば、
もう二度と、思い出すこともないだろう。
それでいい。
これは、あなたが読んでしまった唯一の証拠であり、
存在しなかった人間の、
本当の最後の記録なのだから。
——終わり。













編集部コメント
依頼人の悩みや不安に向き合うカウンセラーという立場の主人公が見せる慈愛にも似た優しい共感と、その裏にひそむほの暗い闇。いわゆる正義ではないものの、譲れない己の信念のために動く彼の姿は一本筋が通っていて、抗いがたい魅力がありました!