漣side
街は、いつもより少しだけうるさかった。
屋台の呼び込み、スマホを構える音、遠くで鳴るクラクション。
それら全部が、ひとつの膜になって、漣の耳を包み込む。
「……騒がしい」
声にならない呟きが、喉の奥で消える。
足元のアスファルトは、まだ昼の熱を残している。
ネオンの光が濡れた路面に反射して、揺らいで見えた。
それでも漣の歩調は変わらない。
まっすぐ、一定のリズムで。
通りの向こうで、誰かがスマホをこちらに向けている。
斧を背負った少女を撮ろうとする光。
けれど漣は目を向けない。
自分がどう映っているかなんて、どうでもよかった。
“退屈じゃなければそれでいい”——そう思っていた。
斧の柄を軽く持ち替える。
わずかに生じた風圧で、青い髪が頬にかかる。
その瞬間、何かが──変わった。
風の流れが止む。
音の膜が、ほんの一瞬、薄くなった。
漣は足を止めた。
視線の先、遠くのビルの屋上に、何かが“在る”気がした。
気配ではない。音でもない。
けれど、確かにこちらを見ている“点”がある。
周囲の雑踏がまた戻る。
信号の音。笑い声。油の匂い。
さっきまでと同じ街のはずなのに、何かが違う。
──視線の密度。
数多の目が向けられている中に、ひとつだけ異質な視線があった。
他のどれよりも鋭く、静かで、冷たい。
漣は顔を上げる。
視線の先には、夜の空気を切り裂くような月光。
その奥に、わずかな“光の反射”が瞬いた。
ビルの屋上、ガラスのように細い何か。
遠くすぎて、輪郭なんて見えない。
でも──それが「こちらを見ている」とだけは分かった。
目が合ったかどうかは、分からない。
ただ、心のどこかが少しだけざわめいた。
胸の奥の“退屈”が、ひと筋のノイズのように震えた。
「……」
言葉が浮かばない。
風が再び動き出す。
髪が揺れ、斧の刃がわずかに光を返す。
何も起きない。撃たれもしない。
それでも、どこかに“何か”が確かに存在していた。
漣はもう一度だけ、空を見上げた。
月の下で揺れる光は、もう消えていた。
「……今日は、少し面白いかも」
小さく息を吐いて、歩き出す。
人混みの中に再び沈む影。
彼女の足音は、誰にも気づかれない。
それでも確かに、夜は変わっていた。
“誰かがこちらを見ていた”という事実だけが、
彼女の胸の奥で、まだ微かに熱を持っていた。











編集部コメント
依頼人の悩みや不安に向き合うカウンセラーという立場の主人公が見せる慈愛にも似た優しい共感と、その裏にひそむほの暗い闇。いわゆる正義ではないものの、譲れない己の信念のために動く彼の姿は一本筋が通っていて、抗いがたい魅力がありました!