帝都ルプガナの表通りを堂々と歩き、水晶宮へと真っ直ぐに帰参する。
それがバルロイ・テメグリフと虫籠族の精鋭を退け、もはや造反は失敗に終わったと判断したヴィンセントの、勝利宣言にも等しい決断だった。
皇帝の帰還に跪く帝都の人々が作る道を通り抜け、一行は城門を潜り、おののく帝国兵たちを押しのけ、水晶宮へと乗り込んでいく。
そして――
ヴィンセントを先頭に水晶宮の大広間へ上がると、巨大な声が頭上から降ってくる。広間の二階、そこに姿を見せたのは黄金の鎧を纏った強面の偉丈夫だ。顔中に刀傷のある大男は眼下の皇帝を見ると、巨体に見合わぬ速度で階段を駆け下り、皇帝に跪いた。
大男の瞳にヴィンセントの隣――クラリルとの戦いがおあずけになってからずっと覇気をなくした調子のセシルスが映り、やかましい叫び声が水晶宮を揺らした。
皇帝の命令を受けて、巨躯――九神将、ゴズ・ラルフォン一将が戸惑いつつも部下にセシルスの身柄を水晶宮から連れ出させる。
ずるずる引きずられていくセシルス、彼をヴィンセントは冷たい視線で切り裂きながら、
バルロイの裏切りを聞いて、思わず声を震わせるゴズ。そのゴズを遮ったのは、ヴィンセントの背後、水晶宮の外からやってきた老齢の男性だった。
幾人もの帝国兵を引き連れる男性、その登場にヴィンセントが細い腕を組む。
と、毒の強いヴィンセントの物言いに、穏やかに首を振る男性。――名前と肩書きが聞こえた以上、この男性は帝国宰相ベルステツ・フォンダルフォンと考えて間違いない。
武官の頂点が九神将ならば、宰相は文官の頂点と言えよう。その役職を一人で負う彼こそが、ヴォラキア帝国で皇帝に次ぐ地位に立つ人物だ。
何故か不思議と、謁見の間では姿を見なかったが――
ユリウスたちに感謝を示すベルステツに、ヴィンセントは言葉を突き立てる。だが、ベルステツは涼風を浴びたようにそれを受け流し、
視線の温度が下がる皇帝に、ベルステツが老獪に応じる。その返答に眉を寄せる皇帝の前へ、宰相は背後の私兵を一人、前へ進み出させた。
その兵は腕の中に木箱を抱えており、それをヴィンセントへ献上するように差し出す。その木箱の蓋を、横からベルステツが開くと、
その箱の中身を見て、嫌そうな声を出したのはフェリスだ。ただ、彼の反応も無理はない。彼の隣に立つユリウスも、同じものを見て眉を顰めていた。
――箱の中にあったのは、中年の男の頭部だ。
首を斬られ、無念の内に果てた壮絶な死相。青白い、血の気の失せた死に顔を検め、ヴィンセントは片目をつむってベルステツを見た。
応じて、皇帝は静かに虚空に浮かぶ柄を右手で掴んだ。
直後、大気の鞘から引き抜かれるのは、柄から刀身まで深紅に染まった宝剣だ。美しい装飾の施され、見るものの心を虜にする宝剣の中の宝剣――
それが何の衒いもなく、あろうことか棒立ちのベルステツの首へと叩き付けられた。
宝剣の剣速と切れ味は、易々と老人の首を刎ね飛ばす勢いがある。しかし、振り切られた深紅の剣は血を知らず、斬られたはずのベルステツも笑みを絶やさぬままだ。
その笑みのまま、ベルステツは自分の首へそっと手で触れて、
宝剣を手にした皇帝の言葉に、不意の紅蓮が立ち上る。それは兵士の腕の中、晒されていた首の箱を焼き尽くす炎だ。とっさのことに木箱を抱える兵が箱を取り落とすが、それは広間の絨毯を焼かず、箱も燃やさず、ただ首だけを焼き尽くす。
奸臣と報告のあった此度の首謀者、その者は完全に燃え尽き、灰燼と化した。
目を細めるベルステツの前で、ヴィンセントが宝剣をくるりと回した。そして、その持ち手をベルステツへ突き出すと、剣を見下ろす宰相に皇帝は笑った。
陽剣に触れることなく、宰相は丁寧に腰を折って、挑戦の機会を辞退する。
最後にそれだけ言い残すと、ベルステツは兵に命じて、灰となった首謀者を回収し、その場から立ち去る。それを見届け、ユリウスは肩の力を抜いた。
隣ではフェリスも、露骨な安堵に頬の強張りを解いていて、
整った眉を難しげに顰め、クラリルが首を傾げる。
ヴィンセントの振るった陽剣に、本物の殺意が宿っていたのはユリウスも見取った通りだ。が、ラインハルトの場合はそれ以上のものが見えていたらしい。
あの場で、殺意が結実しないとわかっていたのは、当事者であるヴィンセントと、微動だにしなかったベルステツ。そして、ラインハルトの三人だけだっただろう。
立ち去る宰相の背が見えなくなると、ヴィンセントが忌々しげにそう呟く。そして、呟く彼が何気なく陽剣を手放すと、深紅の宝剣は宙に呑まれるように姿を消した。
帝国に継がれるとされる伝説の『陽剣』。その存在にも興味を引かれるところだが、ユリウスの関心は今のヴィンセントの呟きの方に向いた。
自刃した上級伯と、皇帝と宰相のやり取り。それを踏まえれば、黒幕は――
と、ユリウスが一歩、ヴィンセントへと足を進めた瞬間、ユリウスの肩がガシッと掴まれた。
細い指から辿っていくと、ユリウスを止めていたのはクラリルである。
彼女は白と銀を織り交ぜた色の髪を揺すり、やめておけとでも言いたげに首を横に振った。
クラリルの制止にユリウスは己の行き過ぎた好奇心を自覚し、眉を下げる。ここから先はヴォラキアの問題。王国と帝国の関係を歪めたくないなら、詮索はもう十分だ。
事態の終結後も謎を残して、帝国と王国の特別外交はお開きとなった。
帝都ルプガナを離れ、王国との国境にある関所へ向かいながら、帰路の竜車でフェリスが唇に手を当ててそう呟く。
彼の問いかけが向くのは、行きと同じように正面に座った賢人会の二人――事件の間、帝国兵に身柄を拘束されていたマイクロトフとボルドーだ。二人も無事に解放され、こうしてユリウスたちと共に帰路についている。
その事実に安堵する一方、囚われていた二人に詳しい説明を求めても、疑問の答えは返ってこないと思われたが。
不服の態度を崩さないフェリスに、マイクロトフが無言で顎を引く。
事態の収拾後、マイクロトフたちを解放し、改めて謁見の間へ王国使節団を集めたヴィンセントは、あっさりとこちらの要求した不可侵条約に同意した。
無論、正式な条約の締結には手順を踏む必要があるが、この遠征の目的は達成だ。
しかし、それを手放しに喜べないのも事実。
その内心のわだかまりを、隣に座るラインハルトに見破られる。こちらを案じる友人の青い瞳に、ユリウスは「そうだね」と素直に頷いた。
不可侵条約があろうと、両国の関係が改善されるわけではない。ましてや、ユリウスは近衛騎士団に所属する騎士だ。そうそう王都を離れているわけにもいかない。
ただ、ユリウスの胸のしこりは、そうしたことと無縁の部分にある。
ユリウスと同じ結論に達した上で、あの場では引き止めたクラリルに対して首肯する。それから、正面で己の髭を撫でるマイクロトフへと向き直り、
問いを受けた賢老、その髭を撫でる手が止まった。マイクロトフは瞳を細め、ユリウスの視線を静かに受け止めている。そのマイクロトフに代わって、「どういうことだい?」と口にしたのはラインハルトだ。
クラリルの言葉を遮り、髭を撫でる手を再開したマイクロトフがそう答える。その賢老の答えに目を見張り、ユリウスはもう一つの確信を得た。
そのユリウスの質問に、マイクロトフは穏やかに唇を緩めて答えない。だが、その沈黙こそが雄弁な答えだと、ユリウスは驚嘆と共に解するしかなかった。
帝国民は精強たれ。――その教えこそが、ヴォラキア帝国の選択肢を絞るのだ。
神龍との盟約が途切れ、加護を失ったルグニカ王国。長年、冷戦状態にあった王国と帝国の関係を思えば、帝国が攻め入らない理由はなくなる。
少なくとも、帝国の国民感情を思えば、皇帝は不可侵条約を受けられないのだ。
帝国側が王国にあえて譲歩する。そんな理由が生じない限りは――
マイクロトフの話に、フェリスとクラリルとラインハルトが意見を交換する。
ヴィンセントの命令に従い、この反乱を誘発し、さらには計画の主導権を握ることができた人物――ここで、先ほどのクラリルの推理が効いてくる。
思えば、不自然なことの連続ではあった。だが、最大の不自然は、ヴィンセント・ヴォラキアの持っていた、根拠のない自信。
それを、生来の気質と言ってしまえばそれまでの話だが、そうでないとしたら。
根拠のない確信が、根拠のある確信だったとしたら、その答えは。
それに、バルロイはラインハルトへの復讐が動機だと言っていた。あの、最後の最後に残した言葉に嘘はなかったと思う。バルロイがラインハルトを殺すために、ああした状況を用意したことは間違いない。
だが、ヴィンセントならあるいは、バルロイの復讐心すらも見抜いて、自分の作り上げた盤面の説得力に利用したのではないかと、そうとすら思えて。
ユリウスの至った結論を、マイクロトフが遠回りな物言いで肯定する。正直言って、空恐ろしさしか感じられない結論だった。
だが、短時間ではあるが、皇帝に同行したユリウスには信じられる。
ヴィンセント・ヴォラキアは稀代の謀略家にして、神算鬼謀を有する孤高の皇帝だと。
神聖ヴォラキア帝国の在り方を、誰よりも体現した存在、それが彼だった。
そう、マイクロトフが静かな声で問いを投げ掛けた。
質問の矛先は、賢老の正面に座る四人の近衛騎士だ。ヴォラキア皇帝と間近に接し、それぞれが何を思ったか、賢老は騎士たちに問うている。
四人、揃って沈黙が生まれる。しかし、それは答えに詰まった故の沈黙ではない。
ちらと窺う左右の横顔、フェリスとクラリルとラインハルトの表情に迷いはなかった。それは三人がすでに、今の質問に対する確固たる答えを持ち合わせている証拠だ。
三人の内側には、揺らぐことのない芯がある。それは幼い頃から背負い続けてきた宿業による覚悟であり、終の主君と今は亡き恩人への絶対の忠義であり、立場のみに縛られず築き上げられた正義である。
――その三人に匹敵するモノが、自分にあるだろうかとユリウスは自問する。
だが、そんな四者を見比べて、沈黙を答えと受け取った賢老が満足げに笑う。その予想外の反応に驚く騎士たちだが、ボルドーだけが訳知り顔で首を横に振った。
頷くマイクロトフに、ボルドーが厳めしい顔に深い皺を刻む。そんな二人の会話を聞いていて、ユリウスは今回の帝国外交の目的の一端に自分たちがいたのだと理解した。
近衛騎士の四人を帝国に同行させ、ヴォラキアの実態を肌で感じさせる。クラリルとラインハルトはもちろん、ユリウスとフェリスも近衛騎士として将来を嘱望される立場だ。
この経験は、必ずや将来活かされる。ひょっとすると、ヴィンセントがラインハルトとクラリルを使節団に同行させるよう求めたのも、九神将と相対させる目的があったのか。
フェリスの指摘に、首の自由を得たクラリルとラインハルトが微笑む。その二人の会話を聞いて、ユリウスも頷いた。
こればかりは変えられないと、ユリウスの答えに三人が顔を見合わせ、肩をすくめる。
その反応を横目に、ユリウスも竜車の窓から空を見上げた。
――空に境界はなく、地に王国と帝国の境があろうと、青は続いていく。
目には見えない壁が、ある。意識の中に、あるいは自分たちの在り方の中に。
帝国の在り方を知り、皇帝の孤独を知り、その強大さを知り、王国へ今、帰還する。
王国の未来は何処へ向かうのか。国王不在の王国にとって、それは避け難い命題だ。
いざ、王国が未来へ踏み出すとき、この経験を得た自分に何ができるだろうか。
空を仰ぎ、想いを馳せ、ユリウスは静かに思い悩む。
その悩みの答えとして、遠からず彼は一人の少女と出会い、道へと踏み出す。
――ルグニカ王国、次代の王を決める『王選』。
――その始まりは数か月後の、すぐそこまで迫ってきていた。
同日、同時刻。――帝都ルプガナ、水晶宮にて。
その厳かな声を聞いて、跪いていたものたちがゆっくりと顔を上げる。
赤い絨毯に膝を突くのは、帝国で他に並ぶもののいない強兵、九神将だ。老人に巨漢、異形に獣人と異彩を放つ兵たちが、揃って頭を垂れる相手はこの世にただ一人。
それが、神聖ヴォラキア帝国第七十七代皇帝、ヴィンセント・ヴォラキアである。
豪奢な玉座に座り、頬杖をつくヴィンセント。その空いた右手の先で揺れるのは、二つの金属製の首輪――中央に魔晶石をあしらった、『服従の首輪 』と呼ばれる拘束具だ。
帝国国内のみならず、世界中でありふれた『ミーティア』の一つだが、この首輪には世界で唯一の付加価値がある。――それは、『剣聖』と『魔帝』の有する絶大な力の一端を啜ったということだ。
指で首輪を動かしながら、皇帝が傅く一将の一人を呼ぶ。それを受け、顔と思しき部分を動かしたのは、金属と鉱物を混合した肉体を持つ鋼人。
その鋼人の反応に、ヴィンセントは首を傾ける。そして、視線を正面ではなく、広間の天井――否、水晶宮そのものへと向けて、
と、ヴィンセントの問いかけに答える声が、部屋全体から聞こえる。それはまるで、水晶宮そのものが発音したように重々しい声音だった。
だが、その場にいる誰一人、声の出所には反応しない。ただし、驚きがないわけではなかった。その驚きの原因は声ではなく、声の内容であったが。
驚嘆するもの、息を呑むもの、警戒するもの、分析するもの。それはそれぞれ順番に、グルービー、ゴズ、モグロ、オルバルトの反応だ。彼らが揃って脳裏に描くのは、危険な実力を遺憾なく証明していった存在、ラインハルト・ヴァン・アストレアとクラリル・フェル・ラルダイト。
彼の『剣聖』と『魔帝』をどう攻略するか、それが目下、最大の懸念事項であると――
そこへ、待ったをかけたのは前述の四人以外の人物。頭のてっぺんから爪先まで全身を白一色で固めた、色素の抜け落ちたような長身の男だった。
それは、この場で唯一、ルグニカ王国の使節団と顔を合わせなかった人物。――否、それは正確ではない。顔を合わせてはいたのだ。ただ、この顔ではなかっただけで。
白一色の男――チシャ・ゴールドが、語気を荒くするゴズと睨み合いになる。その体の厚みでは比べるべくもないが、身長だけは拮抗する二人だ。跪いたまま、それこそ互いの顔がくっつきそうな距離で睨み合いが続く。
しかし、その睨み合いに終止符を打ったのは、眉を上げたオルバルトだ。
厳めしい面でオルバルトを見下ろしたものの、一応の納得だけはしたのか、ゴズは不服そうに歯を噛む音を立てて口を閉ざした。それを見届けるヴィンセントに、チシャが「閣下」と呼びかけ、
顎に手をやり、とぼけた回答をするチシャにヴィンセントが小さく喉を鳴らす。それが皇帝の笑みだと九神将が気付くのと、「だからよ」と皇帝が続けたのは同時だ。
ヴィンセントの答えを聞いて、チシャは己の胸に手を当て、深々と頭を下げる。それで皇帝と、影武者役の軍師との問答はおしまいだ。
グルービーの問いにヴィンセントが応じると、モグロが珍しく声に同情を滲ませる。
頬杖をついて、ヴィンセントが唇を横に裂く。その禍々しい笑みを見て、グルービーとモグロも察した。――セシルスの敗北すら、皇帝の思惑通りなのだと。
折れることを知らない帝国最強が、王国の『剣聖』と戦い、敗北する。
その経験の有無が、セシルス・セグムントという剣士を、ラインハルト・ヴァン・アストレア相手に引けを取らない存在に仕立て上げる。
何もかもが皇帝の思い描いた通りなら、その深謀遠慮には言葉も出てこない。しかし、だとしてもやはり、ヴィンセント自身が命を懸ける理由は――
そのために、自分の命さえも手札の一枚として容赦なく切れる。
それこそが、ヴィンセント・ヴォラキアの強みであり、ヴォラキア皇帝のあるべき姿。
恐れおののく重臣たちの前で、ヴィンセントは片目をつむり、思案する。
目は、いつも片方ずつしか閉じない。いずれか片方を開けておかなければ、自分の命を奪わんとする相手を見落とすかもしれない。それが、帝国の頂点の覚悟だ。
そうして、もはや慣れ親しんだ警戒の中、ヴィンセントは考える。考えるのは、先ほどのグルービーの問いかけと、意図的にはぐらかした回答だ。
グルービーは、全貌を知っていたものがいたか、とヴィンセントに問うた。それを皇帝ははぐらかした。何故なら――
全ての咎を一人で背負い、自らの信念に殉じた戦士に、皇帝が誰にも聞こえぬ称賛を。
それと同時に、バルロイの悲願が成就しなかったことを、少しだけ惜しくも思う。
傅く九神将たちがおののくように、全てが自分の思い通りであればどれほどよいか。そんなことを考えて、ふと、ヴィンセントは誰にもわからぬ笑みを浮かべた。
それはかつて、ヴィンセントの知る『世界』の主人の、魔法の言葉だった。
――時は波乱の外交より、数日を進める。
舞台を王国、練兵場に移して、衆目に晒される中、二人の剣士が愛剣を振り合って、叩き合わせて、ぶつかり合っていた。
――『剣聖』ラインハルト・ヴァン・アストレアと『青き雷光』セシルス・セグムント。
『龍剣』と『邪剣』と『夢剣』――三本の名剣、魔剣、聖剣が、小気味好い鋼の音を打ち鳴らす。
帝国から王国に逃げ込んだ逆賊を確保するため、帝国側から送り込まれた最強の刺客たるセシルスともう一名。幸い、帝国から使者がやってきた理由の大部分はユリウスやフェリスの活躍もあって片付いたと聞いている。今はセシルスの希望で彼がラインハルトと決闘を行っているところだ。
そして、帝国からやってきたもう一人の使者というのが――
遅れて練兵場にやって来たクラリルを、長身痩躯で全身白色の人物が出迎える。隣の席を手で示してきたので、クラリルはそれに従って腰を下ろしたところ、放たれたのが彼の人物の名前だった。
チシャ・ゴールド――『九神将』の一人で『白蜘蛛』と呼ばれている帝国一将のはずだ。
そう、目の前で繰り広げられる異次元の剣舞に似通った感想をこぼすクラリルとチシャ。
それでも、チシャがセシルスに向ける目は絶対の信頼だ。彼は、たとえ『剣聖』ラインハルトが相手でもセシルスが勝利すると確信している。――それはもちろん、向ける対象が違うだけでこちらも全く同じだが。
と、そんなチシャを眺めているクラリルは珍しい予感に瞳をパチパチと瞬かせた。
滅多に見ない予感だ。クラリルがチシャから感じ取ったのは、クラリルが『クラリル』として生を受けてからこれまでの間でたった二回だけ感じたことのある予感。
ただ、それは決して凶変の前兆というわけではなく――
クラリルの問いかけに何の心当たりもないなら、チシャの返しは不自然だ。突然質問されたら意味がわからないのが普通だが、そうしなかったチシャの態度はとっさに心当たりが浮かんだ者の態度である。
それに、その姿勢を確認したクラリルが再び出した問いには、チシャは何も言わず沈黙を選んだ。だが、沈黙は時に雄弁より物を語る。
クラリルがラネットだった頃は、到底こんな予感が頭を過ることはなかった。
転生してからなのだ。全てを失い、必ず救うと誓ったあの日から、クラリルには同じような考えを持つ人間の区別が何となくわかるようになった。
そう決めた人間は、他の人間とは覚悟の色が違う。質がどうこうというものではなく、クラリルのような人間には、決断した人々しか持ち得ない特殊な覚悟が備わっているのだ。
真意には口を噤むチシャの思惑をクラリルなりに解釈し、言語化した。
クラリルも、助けたいと思っているのは助けたい人がこれ以上ないぐらい大切な人だからだ。何人もいるが、親愛においての最愛なんて何人いたっていいだろう。
しかし――
自分も、今までの人たちもそうだったので、てっきりチシャも大事に思っている人を救いたいのではないかと思っていたのだが。
まあ、クラリルにはクラリルの、チシャにはチシャの事情がある。王国と帝国という国家から違う環境で育ってきた二人なのだから、多少の齟齬はあって当然か。
それに、救いたい人がいるという根っこの部分でクラリルと違わないのなら、クラリル・フェル・ラルダイトとして約二十年同じ想いを拗らせている自分から助言のしようはある。
魔女教のような吐き気を催す邪悪を除いて、誰かが死ねば、喜ぶ人間より悲しむ人間の方が多い。
死の影響は、常々思っているよりも大きい。死ぬ本人はもちろん、死んだ者の周囲の人間も精神的に大きく傷を受けるものだ。――フォルトナの死が、ジュースの心を壊したように。
生きていてほしい。希望を捨てないでほしい。あんな喪失感を、味わわないでほしい。
その喪失感に数多くの人間を突き落としてきた分際で、何を身勝手なと後ろ指をさされるかもしれないが。
急にチシャが噴き出したが、クラリルには何が面白かったのかわからず、首を捻った。チシャは唇を歪めたまま目をつむる。
閉じている瞼の裏側に何を見ているのか、彼は噛み締めるように何度も頷いた。
ゆっくり、ゆっくりと巡った感情を味わい、それが終わるとチシャはその双眸で以て、現在進行形で激化している『剣聖』と『青き雷光』の大決戦に視線を飛ばす。彼には二人の軌跡すら捉えきれないはずだが、手を顎に添えて、何事か思案するように俯くと、
そこで一度言葉を切り、チシャはじっとクラリルを見つめる。そして、
――クラリル・フェル・ラルダイトとチシャ・ゴールドは今回の一件を切っ掛けに、定期的に文通をする程度の仲となる。
互いに互いのことをどう思っているのか、ここに事細かに記すつもりはない。
残すことがあるとすれば――この繋がりは後に向けて敷かれた『伏線』だというのみである。
《Fin》
またまた13000字を超えて『流血の帝国外交』は完結となります!
今回はまだ本編に全然出てきてないヴォラキア勢とワチャワチャやらせてみたわけですが、まあ楽しかった。さすがヴォラキア、強さのハードルがいいところにある。
アニメ勢の方々もいるかと思いますのであんまりネタバレはしませんが、一部のキャラクターは今後の展開に大きく関わってくるのでお見逃しなく!
こっちで飛ばしたユリウスvsバルロイ戦だったりは『Re:ゼロから始める異世界生活 ex4』に収録されていますので皆さん、買いましょう(原作は神)。
帝国編は終わりましたが、外伝はまだ終わらない。
次回は『マイ・フェア・バッドレディ』を公開します。お楽しみに!












編集部コメント
主人公は鈍感で口下手ではあるものの『コミュ障』というほどではないので、キャラの作り込みに関しては一考の余地があるものの、楽曲テーマ、オーディオドラマ前提、登場人物の数などの制約が多いコンテストにおいて、条件内できちんと可愛らしくまとまっているお話でした!<br />転校生、幼馴染、親友といった王道ポジションのキャラたちがストーリーの中でそれぞれの役割を果たし、ハッピーな読後感に仕上がっています。