夜から地続きの冷たい空気が部屋の中に漂っている。
日が昇ってすぐの頃。
鬼殺隊の療養の要__蝶屋敷の一角にある診察室で
2人の柱が向き合っていた。
唇で弧を描く藤色の目は笑っていない。
柔らかい音色の言葉の節々で刺すような鋭さが光る。
__つまり、胡蝶しのぶはもの凄く怒っている、と
向かいに座る少女の姿から冨岡義勇は考えた。
怪我をしたら必ず報告をすること__。
幾度となくこと伝えられていた約束を守らなかった
から、胡蝶は怒っている。それは分かっている。
破ったら最後、彼女が猛烈に怒ることも予見できていた。
それなのになぜ、約束が守れなかったか。
こちらにも弁明はあるにはあるのだが、捲し立てられて
話す隙が与えられない現状、義勇は黙り込むしかなかった。
胡蝶の言葉が淀んだ瞬間、全身に衝撃が走った。
向かいから伸ばされた細い指がつんつん、と
軽くつついている。事の発端である義勇の傷口を。
唸りもしない、顔も歪めない。しかし唇を噛み締める
程度にはダメージを受けている義勇を知ってか知らずか
胡蝶は変わらない表情を浮かべながら、話を続けている。
ここまで一息で話し終えて胡蝶はふと指を離した。
そうしてよれた羽織の袖と、手を揃えて腰を掛け直す。
ここぞとばかりに突き出した唯一の弁明も
真っ向から折られてしまう。
1週間前の任務。たしかに怪我を負った旨を報告
するように頼んだはずの老いた相棒に思いを馳せる。
(お前はまた、忘れて…)
胡蝶からの追撃を打ち返す言葉は、ない。
情けない覚悟を決めて目の前の少女を見据えるが__。
意外なことに、もう胡蝶は怒っていないようだった。
ため息をついたり、呆れている素振りは見せている
もののその口調から刺々しい意思は感じない。
いつもと変わらず笑みは浮かべたままではあるが、
先刻までの怒気をはらんだものとは打って変わり
どこか楽しんでいるような幼い微笑みがそこにはあった。
思わず問いかけた言葉に少女は頷く。
そう言い切るやいなや、胡蝶は立ち上がり診察のために
脱いでいた隊服を押し付けてくる。かと思うと
今度は後ろに回り込んできて背中をぐいぐいと押してきた。
訳も分からない中、促されるままに動いているうちに
義勇は診察室の外へと追いやられていた。
しん、と静まり返った廊下の空気は冷たく、肌が粟立つ。
もう一度振り向いて少女の顔を見下げた。
やはり怒りの色は浮かんでいない。
何かがおかしな気がする。
大言もなく手放しに帰される、そんな都合の
良いことがあるだろうか。
加えて、胡蝶のこの翻し。
まるで義勇を早々に帰らせようとしているようだ。
こちらが強く言い返せないのをいいことに上手く
丸め込まれている気がする、そんな漠然としない
不信感が義勇の心中を曇らせた。
冨岡の疑念などつゆ知らず、無情にも
扉は閉められる。
「私の可愛い"刺客"が
あなたの帰りを待っていますから。」
刹那、胡蝶は、そう告げた。
口をついて出た声は、もう届かない。
しかくとは一体何のことだろうか。
まる、さんかく、しかくの四角…。
いやまさかそんな突拍子もない言葉のはずは。
そうなれば、しかくとは…やはり
結局、突拍子も無い言葉であることに変わりなかった。
この場における圧倒的強者は胡蝶であり、弱者は
彼女の意向に抗えない。
決断をしたなら早いもので、腕に引っ掛けている隊服を
広げて、するりと袖を通した。












編集部コメント
主人公は鈍感で口下手ではあるものの『コミュ障』というほどではないので、キャラの作り込みに関しては一考の余地があるものの、楽曲テーマ、オーディオドラマ前提、登場人物の数などの制約が多いコンテストにおいて、条件内できちんと可愛らしくまとまっているお話でした!<br />転校生、幼馴染、親友といった王道ポジションのキャラたちがストーリーの中でそれぞれの役割を果たし、ハッピーな読後感に仕上がっています。