第17話

未亡人ラプンツェルは夫の帰りを待つ
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2026/04/10 05:24 更新
皆さま、こんにちわ。



わたしはエリス・ラプンツェル。そこそこ裕福な子爵家の一人むすめです。



昨年、長年病に臥せていた母が亡くなり、代わりに、父親の恋人が後妻としてやって来ました。後妻には七歳歳上の娘リリィがいて、そこから目も当てられないようなドアマット生活が始まったのです。



愛人の娘という立場から、リリィはエリスのことが嫌いなのです。



家族団欒で過ごすはずの食事どきにも呼ばれなくなり、後妻とその娘に折檻され、屋根裏部屋に閉じ込められたのは遥か昔の話。実の父親もエリスにとりつくしまもなく、名前すらも半年呼ばれていない。



ですが、そんなエリスを救ったのが、一つの縁談だったのです。

もっとも、救いと呼んでいいかは微妙なところでありますが。



「こんにちは」

「あぁ……君がラプンツェルさんか」



振り向いた横顔は、彫刻のようにきりっとした顔立ちで、少しの間驚いていました。エリスは軍人を見たことがなかったのです。大木のようにずっしりとした体躯で、思わず恐れおののいてしまいます。



縁談の相手はヴァルター・クロイツ侯爵。三十二歳。エリスより十四歳上。



隣国との国境近くに広大な領地を持つ軍人貴族で、辺境の守りを一手に担う男です。騎士団の中でも一、二を争う剣の使い手と聞いていましたが、エリスには確かめる術もないのです。見合いの席で向かいに座ったのは、無口で、無愛想で、お世辞にも愛想のいいとは言えない男でした。



父が縁談を持ち込んだ理由は、エリスには透けて見えていました。



後妻とリリィが屋敷に収まって以来、エリスの存在は父にとって処分に困る荷物でしかなかったからです。子爵家の一人娘という立場が邪魔で、かといって放り出せば体裁が悪いのです。どこかへ嫁がせてしまえれば万々歳、というわけです。相手が辺境の年上軍人でも、父は一切気にしなかったのです。



屋根裏部屋でうずくまっていれば、客間からかすかに聞こえたから。



腹の底から苦い汁のようなものが込み上げて来ましたが、それもすぐに治りました。

だって、どこへ行っても屋根裏部屋よりはましだろう、というのが正直な気持ちだったからです。



見合いの席で、ヴァルターはほとんど喋りませんでした。ただ一度だけ、「不自由はさせない」と言ったのです。エリスは「よろしくお願いします」と答えました。それだけで、縁談は決まりました。







嫁いでみると、ヴァルターは思ったよりずっと不器用な人間でした。



会うや否や「戦が終わるまで君には指一本触れないから」と真顔で宣言し、初夜も寝室を別々にするという手の込みようです。流石に、この時は私も動揺しました。



無口なのは相変わらずで、食事の席でも言葉少なでしたが、エリスの皿が空になれば次を勧めてくれました。屋敷の使用人たちへの扱いも横柄なところがなく、エリスが挨拶に回れば皆が丁寧に応じます。主人の人柄は使用人に映る、と母が言っていたことをエリスは思い出しました。



個室がありました。鍵のかかる、自分だけの部屋が。

それだけで、エリスはこの縁談に心から感謝しました。



結婚して三月ほど経った頃、ヴァルターが呼びに来ました。執務室の扉を自ら開けて、「少し話がある」と言いました。珍しいこともあるものだとエリスは思いながら向かいの椅子に座ると、ヴァルターは書類を一枚、机の上に置きました。



「出征命令が出た」



エリスは書類を見ました。隣国が国境を越えて侵攻を始めたとあります。ヴァルターの騎士団に出動要請が下りた、という内容でした。



「どのくらいですの?」

「分からない。長くなるかもしれない」



短い沈黙がありました。



「屋敷のことは執事に任せてある。困ったことがあれば何でも言うといい」



それだけ言って、ヴァルターは立ち上がりかけました。エリスは少し考えてから、口を開きました。



「お気をつけて」



ヴァルターは一瞬、動きを止めました。振り返った顔は、いつもと変わらず無愛想でしたが、何かが少しだけ違った気がしました。



「ああ」

 

それが、エリスがヴァルターと交わした最後の言葉でした。







戦死の報せが来たのは、出征から一年と少し経った頃のことでした。



伝令が持ってきた書状には、ヴァルター・クロイツ侯爵が最前線での戦闘中に行方不明となり、生存の確認ができないため戦死と認定する、と記されていました。エリスは書状を読んで、しばらく窓の外を見ました。



悲しいかと問われれば、悲しかったです。

ただ、どう泣いていいか分かりませんでした。

三月しか一緒にいなかったから。



それでも、屋根裏部屋から救い出してくれた人でした。皿が空になれば次を勧めてくれた人でした。



エリスは未亡人になりました。十八歳で。



父からはすぐに「戻って来い」と手紙が来ました。リリィからは「かわいそうに」と書いてありましたが、その文字は少し弾んでいるように見えました。エリスは両方とも、返事を出しませんでした。



戻る理由がありません。ここが、自分の家なのですから。







隣国からの招待状が届いたのは、ヴァルターが行方不明になって八ヶ月目のことでした。



差出人はカルラ・エーデル伯爵夫人。同盟国の社交界で名の知れた女性で、「両国の友好を深めるため」という名目の茶会への招待でした。文末に「奥様のご心痛お察し申し上げます」と一文が添えてありました。



エリスは少し考えてから、行くことにしました。

断る理由がありませんでした。それと、屋敷に閉じこもっていても何も変わらないことは、この八ヶ月で十分に学んでいました。



茶会の会場は、国境近くの瀟洒な館でした。

白薔薇を模した飾りつけの大広間に、絹のドレスをまとった夫人や令嬢が十数名。エリスが入室すると、一斉に視線が集まりました。好奇心と値踏みの混じった目だと、エリスにはすぐに分かりました。



カルラ夫人は四十がらみの、いかにも社交慣れした女性でした。エリスの手を取り、「よくいらしてくださいました」と微笑みました。



「クロイツ侯爵夫人のお噂はかねがね。こんな大変な時期に、よくぞお顔を出してくださいました」



周囲の夫人たちが一斉に頷きます。

「まあ、ご立派ですこと」「お若いのに気丈でいらっしゃる」と口々に言います。



エリスは礼を述べて席につきました。何故呼ばれたかはわかりません。ただ、クロイツは戦場で鬼神の如く駆け巡り、隣国で英雄として称えられていたことは耳に入っていました。



 出されたお茶は上品な香りがして、菓子も繊細な作りでした。最初の話題は当たり障りのないもので、お互いの国の季節の話、流行りの刺繍の話が続きました。



 けれど、話は徐々にクロイツ侯爵のことへと変わっていきました。



「奥様はご主人様とご結婚されて、まだ一年も経っておられないのでしょう?」



エリスより少し年上の、ジャスミン色のドレスの夫人が言いました。



「ええ。三月ほど一緒におりました」

「まあ、それは……短うございましたこと」



短い沈黙。誰かが扇を開く音がしました。



「でもご安心なさいませ。クロイツ侯爵は優秀な方ですもの。きっとご無事ですよ」

「そうですわね。あの方は、どんな局面でも生き延びてこられた方ですから」



別の夫人が続けました。褒めているのか、そうでないのか、判断のつきにくい言い方でした。



「でも……一年近く音沙汰なしというのは、奥様もお辛いでしょう。ご主人様はお手紙なども」

「戦地ですので」とエリスは答えました。

「そうですよねえ」とカルラ夫人が頷きました。

「戦地では手紙どころではないでしょうし。それに……クロイツ侯爵はもともと、あまりそういうご気性ではないとも聞きますし」

「ご気性、とは」

「いえ、あの方はとても実直な方ですから。ただ、少し……不器用といいますか」



夫人たちの間に、くすりと笑いが漏れました。



「奥様は、ご主人様とはどのようなご縁で?」



若い令嬢が聞きました。社交経験の浅い、まだ悪意の形を知らない顔でした。



「縁談です」

「政略ですのね」とジャスミン色の夫人が引き取りました。

「クロイツ侯爵はずっと独身でいらっしゃいましたものね。三十を過ぎても。……お相手が見つからなかったというより、その、こだわりがおありだったとか」

「こだわり、ですか」

「ええ。以前から、若いお嬢様をお好みだというお噂がございまして」



場がしんと静まりました。エリスは菓子に伸ばしかけた手を止めました。



「若い、というのはどの程度の意味でしょうか」

「さあ……それは存じませんけれど。奥様もずいぶんお若くていらっしゃるから、もしかしてそれが決め手だったのかしら、なんて……いいえ、失礼なことを申しました」



夫人は扇で口元を隠しました。目が笑っていました。



「幼女趣味とまでは申しませんけれど」と別の夫人が続けました。

その声は低く抑えてありましたが、場には十分に届く音量でした。



「まあ、そういうご趣味の方が戦地から戻りたいとお思いになるかどうか、というのも……ねえ」



誰かがお茶のカップを置く音がしました。令嬢が視線を落としました。

カルラ夫人だけが、穏やかな顔のまま菓子を口に運んでいました。



エリスは少しの間、自分のカップを見ていました。

お茶はもう冷めかけていました。菓子は半分残っています。窓の外では、風が白薔薇の枝を揺らしていました。

ただ、指にはめられた婚約指輪を握りしめることしかできませんでした。



エリスは静かにカップを置きました。



「一つ、教えていただいてもよいですか」



場が少し静まりました。エリスは続けました。



「皆様は、夫のことをよくご存じなのでしょうか」

「え? ええ、まあ……社交の場でお見かけしたことは」



「そうですか」とエリスは言いました。

「わたくしは三月しか一緒におりませんでしたので、まだよく知らないのです。ですから、夫のことをそれほどよくご存じの方々に伺えるのは、ありがたいことだと思っています」



一瞬の沈黙がありました。



「……皆様は、夫が戦地から帰ってくると思われますか」



だれも答えませんでした。



「わたくしは帰ってくると思っています。理由は特にありません。ただ、信じていたいから……」



エリスはカップを持ち上げました。

冷めたお茶は、それでも上品な香りがしました。



「本日はお招きいただき、ありがとうございました」



帰りの馬車の中で、エリスは窓の外を見ていました。

窓に雨粒が打ち付けられ、遠くの峰々には遠雷が轟いていました。



胸の中で何かがくすぶっていました。怒りとも悲しみとも違う、うまく名前のつけられないものでした。



幼女趣味、という言葉が頭の中に残っていました。ばかばかしいとは思いました。ただ、それより前に、夫のことを自分はほとんど知らないのだということが、じわりと染みました。



三月だけ一緒にいました。皿が空になれば次を勧めてくれました。「不自由はさせない」と言いました。「お気をつけて」に「ああ」と答えました。



それだけでした。

帰ってきたら、もう少し話をしよう。

そう思いました。そのためには、帰ってきてもらわなければなりません。



エリスは窓の外を見たまま、静かにそう決めました。







砂漠を越えるのに、十七日かかりました。

同盟軍の伝令が持ってきた地図には、国境の向こうに小さな印がひとつありました。捕虜交換の場所、と書いてありました。エリスはその印を指で押さえて、執事に地図を返しました。



「行きます」

「奥様、しかし道中が」

「行きます」



砂漠の昼は焼けるように暑く、夜は骨まで冷えました。護衛の兵士が二人、御者が一人。馬車は途中で車輪が砂に埋まり、最後の三日は馬で進みました。水は計算して飲みました。食事は最低限にしました。エリスは一度も弱音を言いませんでした。言っても砂漠は縮まないからです。



十七日目の夕暮れ、地平線の向こうに石造りの建物が見えました。



教会でした。



かつては白かったのかもしれない石壁は、今や灰と砂塵に塗れて色を失っていました。天井は一部崩落し、割れた窓硝子の残骸が床に散らばっています。かつて祈りを捧げるために並べられていた長椅子には煤と灰が厚く積もり、壁画は黒く爛れて、もはや聖者の顔すら判別できないほどでした。



風が吹くたびに、崩れた天井の隙間から砂が落ちました。



エリスは入口で立ち止まりました。

中は薄暗かったです。傾いた陽光が崩落の穴から斜めに差し込んで、舞う砂埃を白く照らしていました。



その光の中に、人影がありました。



長椅子の一つに、背を丸めて座っています。出征前より痩せていました。肩の幅は変わらないのに、どこか小さく見えました。外套は汚れ、髪は伸びて、顎には無精髭が混じっていました。



ヴァルターでした。

エリスが足を踏み入れると、床の砂を踏む音がしました。人影が顔を上げました。



目が合いました。しかし、その目は焦点があっていませんでした。



ヴァルターは、しばらく動きませんでした。エリスも動きませんでした。崩れた天井の隙間から、乾いた風が入ってきました。灰が舞いました。どこかで砂が落ちました。



「……来たのか」



声は、変わっていませんでした。



「はい」



エリスは長椅子の隣に腰を下ろしました。煤で汚れることは気にしませんでした。十七日かけてここまで来たのですから、今更でした。



二人並んで、崩れた天井の向こうの空を見ました。夕暮れが砂漠を赤く染めていて、その色が壁の焼け焦げた跡に重なって、奇妙に綺麗でした。



しばらく、どちらも何も言いませんでした。



「屋敷は」と目を瞑りながらヴァルターが言いました。

「きちんとしています」

「そうか」



また沈黙が落ちました。



「手紙を、全部読んだと書いてくださいましたね」



エリスが言うと、ヴァルターは少し間を置いてから答えました。



「ああ」

「返事をくださらなかった」

「……書けなかった」



エリスは少し考えました。



「なぜですか」



ヴァルターはしばらく黙っていました。崩れた天井の穴から、星が一つ見え始めていました。砂漠の夜は早いのです。



「目が……見えないんだ。狙撃兵か、敵の伏兵か。狼狽していた頃には……」



エリスは窓の外を見ました。割れた窓硝子の向こうで、砂漠が暗くなり始めていました。



「それでも……帰ってきたのですね」

「ああ」



それだけでした。それで、十分でした。

煤だらけの長椅子の上で、二人はしばらく並んだまま、暗くなっていく砂漠を見ていました。壁画の聖者は顔を失っていましたが、祈りを捧げるために作られた場所の静けさだけは、まだそこに残っていました。



風が吹きました。砂が舞いました。天井の穴から、星が増えました。

エリスは、帰りも十七日かかるだろうと思いました。それでもいい、と思いました。



今度は、二人で帰れるのだから。
童話「ラプンツェル」を参考にさせていただきました、ヨルシカファンで、コンポンサーのn-bunaの昔のボカロ曲「ラプンツェル」でテンション上げながら書きました。ざまぁないです。いつもと文体ぶっちゃけ違います。

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