第26話

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2026/03/18 13:15 更新





そして開演。





会場の照明が落ちた瞬間、
歓声がまるで物理的な波みたいに押し寄せた。
空気そのものが震える。
床の下からも、壁からも、ざわめきが伝わってくるようだった。



ヨーロッパの会場特有の、低く厚い歓声だった。
悲鳴に近いのに、どこかあたたかさもある。









巨大なモニターに、一人ずつ顔が映し出されていく。

ミンジョン。えり。ニンニン。ジミン。


それぞれの名前が客席から跳ね返るように呼ばれる。






そして次の瞬間、あなたが映った。






歓声の質が少し変わった。






大きくなるというより、感情が一段深くなる。
おかえりという意味を含んだ歓声。
実際にそう叫ぶ声もたくさん混ざっていた。







「あなたー!」
「おかえりー!」
「待ってたよー!」







客席のあちこちで、
あなたの名前を書いたボードが揺れている。
帰ってきてくれてありがとう、
無理しないで、そんな言葉も光っていた。





モニターの中のあなたは、
その声を受けるようにほんの少しだけ顔を傾けた。

そして口角の片方だけを、静かに持ち上げる。



大きく笑うのではなく、あえて片側だけ。

挑発的でもあり、照れ隠しでもあり、いかにもあなたらしい、少しだけ余裕を残した笑い方だった。

その一瞬で、会場がまたひとつ大きく沸く。

ビジュアルの強さも、帰還のうれしさも、
その表情ひとつで全部持っていってしまう。













あなたは、完全ではなかった。





でも不完全さをそのまま見せるほど無防備でもない。
だからこそ、その日彼女が選んだのは、肩肘を張らない強さだった。





曲が始まり、身体が動き出す。

以前みたいに、一つひとつの動きを全部鋭く取りにいくのではない。
必要以上に力まない。
抜けるところは抜いて、でも肝心な瞬間だけはきちんと決める。
線を細くしすぎず、でも無理に太くもしない。
病み上がりの身体をちゃんと理解している人間の踊り方だった。




それがむしろ新鮮で、美しかった。





力を抜くというのは、手を抜くのとは違う。
余計なところへ無理な熱を使わないぶん、視線の運びや手首の角度、腰の残し方がやけにはっきり見える。
あなたはその日、少しだけ大人びた踊り方をしていた。
以前よりも静かで、余白がある。
その余白に、客席の目が吸い寄せられる。





ジミンも、それをちゃんと見ていた。





隊列が変わり、一瞬だけあなたが後方で
待機する形になるパートがあった。
前方ではジミンがセンターに入っている。

ほんの二拍ほどの短い隙間。
観客の目は全体の構成に向いているはずなのに、そこでジミンは、後ろにいるあなたの方へほんの少しだけ顔を向けた。





そして、何かを言った。



声としては届かない。
音楽の中に紛れてしまうくらい短い言葉。
けれど口の形だけははっきり見えた。







あなたの目が一瞬、丸くなる。

次の瞬間、堪えきれないみたいに肩が少しだけ揺れた。



笑ってしまった。


完全には崩さないようにしているのに、
口元がどうしてもほどける。
パフォーマンスの中だから大きくは笑えない。
それでも、たしかに笑った、とわかるくらいには表情が崩れる。







何を言われたのか、客席にはわからない。

けれど、その笑いはすぐ伝染した。






いちばん早く反応したのはミンジョンだった。
もともとツボに入りやすい性質なのに、あなたが笑いを堪えているのを見ると余計に駄目らしい。

次の振りに入りながらもう完全に目元が笑っている。

そこから数秒遅れて、とうとう耐えきれなくなったみたいに爆笑しながら踊り始めた。








지민
지민
ちょっと、笑



とでも言いたげにジミンがちらりと見るが、
そのジミン自身も少し口元が緩んでいる。







ニンニンとえりは、最初からニヤニヤしていた。
何があったのか全部わかっている顔ではない。
ただ、このグループ特有の、誰かが笑い出すとみんなで崩れていく感じを心から面白がっている顔。

ニンニンは口元を噛んで堪え、
えりは「もうだめ」という表情のまま、
それでもパフォーマンスの線だけは決して崩さない。






そのまま曲は続いていく。





笑いを含んだ空気のままでも、
五人のステージはちゃんと成立していた。
むしろ、その日の会場には、技術だけでは作れない輝きがあった。
全員がそろったことのうれしさが、そのまま動きや視線の中に溶けていた。








あなたが前へ戻ってくる。

五人のフォーメーションがきれいに揃う。
ほんの一人欠けるだけでバランスが変わることを、
みんなもう知っている。
だからこそ、揃った瞬間の気持ちよさは格別だった。






客席もそれを感じ取っていた。






笑いが起こる。
歓声が重なる。
五人が五人であることの意味を、
あらためて確認するみたいな時間だった。

欠けていた一人が戻ってきて、ただ戻ってきただけではなく、またこうしてみんなで笑いながらステージに立てている。

その事実自体が、
ファンにとってもひどく大きかったのだろう。







曲が終わる頃には、会場全体が少しだけ幸福そうに見えた。






ファンはただ完璧なパフォーマンスだけを求めているわけじゃないのだと、誰かが言っていた。
もちろん完成度は大切だ。

でもそれと同じくらい、あるいはそれ以上に、
この五人が同じ空間で呼吸し、目を合わせ、
笑い合いながら立っていることを見たいのだと。





その日のaespaは、まさにそれだった。

あなたが戻ってきたこと。
ジミンの心配が相変わらず溢れすぎていること。
ミンジョンがつられて笑ってしまうこと。
ニンニンとえりがその全部を面白がりながら支えていること。

五人の関係そのものが、ステージの上でひとつの光になっていた。






曲間で肩を寄せる。
視線が重なる。
誰かの笑いが伝染する。
そういう一つひとつは些細なのに積み重なると、
他の何にも似ていない強さになる。











本番の終盤、あなたはふと客席を見渡した。



眩しいライトの向こうに、たくさんの顔が揺れている。
名前を呼ぶ声。
笑いながら涙ぐんでいるような顔。
ピースサインを掲げる人。
ボードを高く上げる人。


その全部があたたかくて、
あなたは胸の奥が少しだけ熱くなるのを感じた。






そして隣を見ると、ジミンがいた。




いつものように綺麗で、
でも今夜は少しだけ隙がある顔で笑っている。

あなたが戻ってきたことが、
あからさまに嬉しい人の顔だった。




その笑顔を見ていると、
言葉にできないものが胸の中でまた静かに揺れた。




けれど今は、それに名前をつけなくてもよかった。

五人で立つステージの上では、
名前がないままでも伝わるものが多すぎる。

最後の決めポーズで全員の呼吸がぴたりと揃った時、
会場の歓声はまた一段深くなった。






それは、ただの大きな声ではなかった。

戻ってきてくれてありがとう。
五人でいてくれてありがとう。
そして、またこうして笑わせてくれてありがとう。

そんな意味まで全部含んだ、震えるような拍手と歓声だった。






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