※ノンリアル
wn × mh
ミョンホが心臓の移植手術を受けたのは、高校生のときだった。
もう少し遅ければ、ここにはいなかったかもしれない。
手術は成功して、身体は回復した。
医師から説明されたのは、ごく淡々とした事実だけだった。
稀に、ドナーの記憶の断片を感じる人がいます。
匂いや感情、理由の分からない懐かしさとして。
ミョンホは頷いただけで、その話を誰にもしていない。
実際、何かを「思い出す」ことはなかった。
はっきりした映像も、名前も、顔もない。
ただ、ときどき胸の奥が理由もなく締めつけられることがある。
夕暮れ、雨、古い本の匂い、誰かの背中を見送る感覚。
それだけだった。
28歳になった今、ミョンホは小さな花屋で働いている。
花に囲まれた空間は、心臓の鼓動が穏やかだった。
生きていることを、静かに肯定してくれる場所。
…
その日も、いつも通りの午後だった。
ベルが鳴って扉が開いたとき、ミョンホはいつもと同じように顔を上げた。
「いらっしゃいませ」
声に出した瞬間胸の奥が微かにでも確かに揺れた。
入ってきた青年は、花屋という空間に少しだけ戸惑ったように立ち止まりそれからゆっくりと店内を見渡した。
落ち着いた佇まい、静かな目。
知っている。
理由のない確信が、心臓の内側から押し寄せてきた。
「……贈り物ですか?」
自分の声が、少し遠く感じる。
「あ、はい。大切な人に」
青年、ウォヌは照れながら短くそう答えた。
その声を聞いた瞬間、胸が強く締めつけられる。
懐かしい。
触れたこともないのに、触れていた気がする。
ウォヌは白い花の前で立ち止まった。
「この花、名前なんでしたっけ」
「……カスミソウです」
「やっぱり」
微かに笑ったその表情に胸の奥で何かがひどく優しく疼いた。
守りたかった。
大切だった。
知らない記憶が、感情だけを伴って溢れてくる。
「好きなんです、こういう花」
ウォヌはそう言って花を見つめる。
「目立たないけど、ちゃんとそこにある感じがして」
その言葉が、まるで心臓に直接触れてくるようで。
ミョンホは一瞬、息を忘れた。
「……素敵ですね」
やっと絞り出した声は少し震えていたかもしれない。
会話はそれだけだった。
多くを語らなくても何かが通じてしまう感覚が逆に怖かった。
花束を包み差し出す。
指先がほんの一瞬触れた。
その瞬間胸がひどく痛んだ。
行かないで。
まだ、話していたい。
それは、ミョンホの感情じゃない。
分かっているのに止められない。
「ありがとうございました」
ウォヌはそう言って穏やかに頭を下げた。
「……いえ」
その背中を見送る。
扉が閉まる。
ベルの音が、やけに大きく響いた。
…
次の瞬間ミョンホの足から力が抜けた。
床に座り込み胸を押さえる。
治ったはずの心臓が確かに痛んでいる。
「……ごめんなさい」
誰にも聞こえない声で、
そう呟いた。
「あなたの大切な人を奪ってしまったかもしれません」
きっとまだ生きていたかった誰か。
愛する誰かがいた誰か。
その命の続きを自分は勝手に生きている。
「こんなふうに思い出してしまって…あなたの気持ちまで抱えてしまって……」
頬を涙が伝う。
会ったことのない人への謝罪。
それでも、確かに存在した愛への謝罪。
花の香りに包まれながら
ミョンホは小さく頭を下げた。
ありがとうとも。
ごめんなさいとも。
どちらともつかない言葉を痛む胸の奥に向かって何度も繰り返しながら。
「ごめんなさい…」
誰かの代わりを生きられるような人間じゃない











編集部コメント
依頼人の悩みや不安に向き合うカウンセラーという立場の主人公が見せる慈愛にも似た優しい共感と、その裏にひそむほの暗い闇。いわゆる正義ではないものの、譲れない己の信念のために動く彼の姿は一本筋が通っていて、抗いがたい魅力がありました!