七海は、夜の布団の中で何度も思い返していた。
────結局、渡せなかった。
枕に顔を埋めてジタバタしたくなるほど、恥ずかしくて、それでも嬉しくて、でもやっぱり恥ずかしい。そんな感情だけが胸でぐるぐるして、眠れなかった。
気づけば朝になり、睡眠不足のまま家を飛び出す。
寝不足の 目をこすりながら家を飛び出したのに、なぜか足取りは軽かった。
ほんの少しだけ期待を抱きながら、七海は駅へ向かった。
ホームに着くと、いつもより早めの電車待ちの人混み。その中で、例の人物を探してしまう自分に気づく。
────藤宮くん、今日も来てるかな……。
キョロキョロと目を走らせていると、突然、横からタッチされる。
びくっ、と肩が跳ねた。
振り向くと、そこにはニコニコ全開の三嶋晴斗。
手を振る勢いで、こっちまで風が来そうだ。
晴斗は楽しそうにじっと覗き込んでくる。
その顔が近くて、七海は慌てて一歩下がった。
嬉しい気持ちと、困る気持ちと、恥ずかしい気持ちがごちゃまぜになっていると、晴斗がひょいっと七海の手元を覗いた。
潰して捨ててしまった。
あんな恥ずかしいの、もう!書けない。
ぷん、と七海がそむけると、晴斗は笑った。
(や、やめて!? 本当にやめて!?)
晴斗が平然と続ける。
七海がパニックになっているところで、いつもの電車がホームに滑り込んできた。
ガタン、とドアが開く。
そして────七海の心臓が跳ねる。
藤宮湊。
今日も変わらず本を片手に、少し眠そうな目で車内へ歩いていく。髪が朝の光に揺れて、七海は思わず見入ってしまった。
(今日も一日頑張れそう……)
そこに、すかさず晴斗が耳元で囁く。
言い返せない。けれど、勇気は追いつかない。
そんな七海を、晴斗は片手でひょいっと押し出した。
結局二人で車内に入った瞬間、七海の視界に湊の後ろ姿が大きく映る。
その瞬間、心臓がドクンと跳ねた。
(どうしよう……今日も無理かも……)
でも、晴斗は諦めない。
(どう考えても自然じゃない)
(100%不自然だ)
でも、言ってる間に晴斗はすでに動いていた。
湊は本から顔を上げて、軽く目を見開いた。
晴斗の明るさに押されて、ほんの少し口元が緩む。
七海は慌てて後ろから追いかける。
(ぅわ……近い……!)
藤宮湊の横に立つなんて、夢みたいだ。
けど、緊張で手が震える。どうしていいかわからず、ただ下を向くしかない。
そのとき、
晴斗が、七海の背中をポン、と押した。
変な声盛大に出た。
湊がキョトンとした顔で七海を見る。
湊は一瞬だけ目を細め、優しく微笑んだ。
それだけで七海は呼吸の仕方を忘れる。
(はっ、はかいりょく……ヤバっ‼)
(無理……し、死ぬ……)
足がふらつきそうになったところを、晴斗が支えてくれる。
七海が耳まで真っ赤にしていると、電車が大きく揺れた。
ガタン────
バランスを崩した七海は、思わず湊の腕に触れてしまった。
パッと手を離すと、湊は少し驚いた顔で七海を見たあと、首を横に振った。
その優しい声で、また七海の頭は真っ白になる。
(どうしよう……今日も無理……ほんとに無理……)
しかし、晴斗は諦めない。
そのやりとりに、湊が軽く苦笑した気がした。
七海はさらにパニックに陥る。
そのとき、車内アナウンスが流れた。
晴斗が七海に目で合図する。
七海が固まった瞬間、電車がまた揺れた。
そして────
晴斗が七海の背中を軽く押した。
七海の手が、湊のコートの端をつまんでしまう。
湊が振り返る。
七海は顔が火のように熱い。言葉が出ない。
それでも。
湊の表情は、昨日よりも少し柔らかかった。
優しい声。その問いかけ。
七海の胸がぎゅっと締めつけられる。
(い、いま……言わなきゃ……!)
喉が震える。
勇気が、欲しい。
その瞬間、晴斗が小声で囁く。
その声に押され、七海は息を吸う。
湊が驚いたように目を開く。
七海は震える手で、鞄を探る。
そこには紙はない。
でも、言葉なら……伝えられるかもしれない。
次の駅に電車が滑り込む。
ドアが開く。
一瞬の静寂。
七海は意を決して、口を開いた。
言い終える前に。
大量の乗客が一気に流れ込み、七海の身体は押し流されてしまった。
気付けば、七海は晴斗の背中にぶつかるように押し込まれていた。
湊は手を伸ばしたまま、七海を見ている。
七海も必死に手を伸ばすが────届かない。
晴斗が慌てて引き寄せる。
ドアが閉まる。
藤宮湊は、少し驚いたように七海を見つめながら、ドアの向こうで立ち尽くしている。
七海は胸を押さえて、息を整える。
(言えなかった……また……)
俯く七海の肩に、晴斗がぽん、と手を置いた。
七海は顔を上げる。
晴斗はニッと笑う。
七海は少しだけ微笑んだ。
電車の窓に映る、自分の顔は赤いまま。
でも、昨日よりずっと前を向いていた。
────この恋の列車は、まだまだ走り出したばかりだ。












編集部コメント
依頼人の悩みや不安に向き合うカウンセラーという立場の主人公が見せる慈愛にも似た優しい共感と、その裏にひそむほの暗い闇。いわゆる正義ではないものの、譲れない己の信念のために動く彼の姿は一本筋が通っていて、抗いがたい魅力がありました!