私は、ゆっくりと古びたドアを開ける。
毎日、毎日開けるのを躊躇ってしまう、このドア。
今日は何故か、嫌な気がしなかった。
勿論返事は無い。
母の第一声は決まっているんだ。
リビングから歩いてきた母親は、
怠そうに私に話しかける。
今思えば、「おかえり」なんて
優しく返されたことはない。
私の母は言葉のキャッチボールすらできない、
幼稚で自己中なインクリングなのだから。
チャリーン…!!
私は廊下に、今日稼いできた分のゲソコインの
入った封筒を投げつける。
封筒から飛び出た数々のコインが、
床や壁にぶつかり跳ね返った。
沢山のコインの音が廊下に響く。
母親は、信じられないというように、
コインの散らばる廊下で呆然と立ち尽くしていた。
私は微笑んだ。
母親の目は見開かれていて、
頬からは汗が滴っている。
母は焦ったように、乾いた笑みをみせた。
こいつは、"家族"をなんだと思っているんだろう。
きっと、軽いものだと思っているはずだ。
だって、こんな発言が出ること自体可笑しいのだから。
母親にとって家族は、
都合よく産まれてきたただの奴隷で、
どんなに傷つこうがどうでもいい玩具で、
いつまでも従順な駒でしかないんだからーーーーー
パァン!!
堪えきれなくなった怒りをぶつけるように、
私は母親の頬をはたいていた。
身体が勝手に、動いていた。
本当は、バイトなんてしたく無かった。
家族の為に、自分を削ってまで
働きたくなんて無かった。
変わってしまった弟の為に、
稼ぎたくなんてーーーー無かった。
誰かに"夜"から連れ出して欲しかった。
私の本当の心に、気づいて欲しかった。
だから、バイトネームは『美陰』。
いつも辛くて苦しいこの状況を"夜"に見立てて。
でも、それは裏目に出てしまったんだ。
"とこよ"と呼ばれるたびに、
私はまだこの夜を抜け出せていないんだ、と
認めたくない事実を認めざるをおえなかった。
その言葉は、何度も何度も
私の心に深々と突き刺さった。
"美陰"は私にとっては刃物だったんだ。
溜め、堪えていた涙が溢れ出す。
私は抜け出すんだ、自分の力で。
この"夜"から。
リビングから驚いた顔を覗かせる陽向と目が合う。
私と母親が揉めている声を聞いて、
気になって見に来たのだろう。
母親がポケットからカッターを取り出した。
カチカチカチ、と音を鳴らして
鋭い刃がむき出しになっていく。
それを母親は両手で持ち、
まっすぐと私に刃を向けた。
母親は私に向かって走り出す。
こいつは、私を刺す気なんだと、今更悟った。
恐怖で、体は全く動かなかった。
バイトでいつも鍛えているじゃないか。
これくらい、避けることなんて余裕なはずなのに。
それでも頭に浮かぶのは、小6の思い出。
殴られ、叩かれ、蹴られた、幼き私の姿。
怖くて、怖くて、堪らなくなって、
何もできなかった。
足は、動かない。
私はそのまま、実の母親に、カッターでーーーーーー
キンッーーーー!!
母親の持っていたカッターが、宙を舞う。
そのカッターは、カシャン、と
音を立て地に落ちていった。
一瞬、何が起こったのか分からなかった。
私の隣には…彼女がいた。
私の隣りに立つハルは、優しく微笑む。
私には、彼女がヒーローのように見えた。
私に向けられたカッターは、
ハルの足蹴りによってはじかれたのだと、今更気づく。
私は、大きな勘違いをしていた。
ハルは、それを隠していたから分からなかった。
よくよく考えれば当たり前の事じゃないか。
ハルがアシストがこんなにも上手いのは、
ハルの超人的な身体能力を兼ねてのものだったんだ。
ただ視野が広いだけじゃ、
ただ納品意識が高いだけじゃ、
ただインク管理が上手いだけじゃ、
あんなにも味方をアシストすることはできない。
広い視野、高い納品意識、上手なインク管理、
そしてーーーー高い身体能力。
それらがすべて噛み合ってこその、
ハルのあの動きだったんだ。
ハルは左手に持つイカフォンをつきだし、
私の母親にみせる。
そのイカフォンからは、先程起こった一部始終が…
母親の罵声と私の声が聞こえてきた。
つい、涙が零れそうになった。
1度恐怖で引っ込んだその涙が、また。
彼女は、私を想ってくれている。
こんな私を"先輩"として。
何も教えることなんかできてないのに、
寧ろ、ハルを傷つけてばかりなのに。
今度は私が彼女に返すんだ。
必ず。
私は立ち尽くしたままの母親と陽向に背を向ける。
そして、ずっと言いたかった言葉を
静かに言い放った。
私はハルの手をひき走り出す。
瞳からは、大粒の涙がこぼれ落ちていた。
最近、涙腺がおかしくなっているのかもしれない。
それとも、懇ろな彼女のせいで、
つい甘ったるくなってしまったのかもしれない。
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私はゆっくりと、ペンを走らせる。
そっと、慎重に、1画1画丁寧に書き綴る。
…ん、何を書いているかって?
私はここ…役所へ、名前を変更しに来ている。
元母親から貰った、
憎きこの名前を手放すために。
というか、まず、ヒトにつける名前として、
この名前は欠陥品なんだ。
『美陰』の"陰"は、
『あるものが光や視界を遮っているために
みえないところ』のこと。
ということは、『美陰』っていう名前は
「美しい光が遮られた場所」…ほら、おかしいでしょ。
きっと元母親は、私を一生奴隷にする気で、
「暗闇の中働き続ける美しい駒」という意味で
この名前にしたに違いない。
もう私は、あいつの駒じゃないんだから。
私はペンをペン立てに戻す。
この世界では、
比較的簡単に名前を変えることができる。
役所へ言って、申請して、それ用の紙に書くだけだ。
私は書き終わった紙を、役所のヒトに提出する。
"影"は、『光、又は光に映し出された姿や形』のこと。
「美しく輝く姿」ーーーー『神堂 美影』。
これが私の、新しい名前だ。
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私はクマサン商会の重い扉を押し開けながら、
クマサンといつも通り口論する。
最近、元の生活に戻り始めている。
…まぁ、元っていうか、
「普通の高校生の生活」になっていってる。
もう、あの日から2週間は経つかな。
学校にも普通に行ってるし、
クマサン商会で稼ぐのはやめてない。
クマサン商会が嫌なんじゃなくて、
"家族のため"に稼ぐことが嫌だっただけだからさ。
というか、クマサン商会はなんだか居心地が良くて、
個人的には結構お気に入りの場所なんだ。
最近は"自分のため"に稼ぐことができて、
毎日が充実している。
こんな感じで、今は一人暮らしするお金を貯めながら
クマサン商会の一室を貸してもらって暮らしている。
クマサン商会って以外に高さあるから、
3階とか4階とか、沢山部屋あるくせに
すっかすかなんだよね。
だから、もう全部屋占領してるし大豪邸(?)。
ハルが重いドアを押し開け、
クマサン商会へとやってくる。
ハルとは、最近もよく一緒にバイトをしている。
正式に弟子として、最近は夜WAVEの克服に
力をいれてんだ。
こんな感じで、めっちゃ仲良し。
学校も、同じエンガワ学園だということが判明した。
ハルには、本名を教えた。
ハルには教えて貰ってんのに、
私だけ教えないのは癪だから…ってのもあるけど、
私を信じて救ってくれた彼女には、
包み隠さず全て話したいと思ったんだ。
私のバイトネーム、『美陰』。
私の辛い思いが詰まった名前だ。
今すぐにでも変えたいに決まっている。
でも、中々、私に合ったバイトネームが見つからない。
私の"常夜"は、終わりを告げたんだ。
これからは、光の当たる道を進んでいく。
そう決めた。
"とこよ"、『常嘉』。
同じ響きなのに、辛くて辛くて憎んでいた言葉なのに。
なんだか、とても…温かい。
私は近くに無造作に置いてあったメモ帳とボールペンを
勝手に拝借し、書き綴る。
その新しい名前を、
クマサンとハルにみせるように掲げた。
今日は終わり、明日が始まる。
"自分のため"の明日…未来は、楽しみで仕方ない。
いつまでもこの幸せが続くと、
この時までは当たり前のように信じていた。
NEXTWAVE…?
編集部コメント
依頼人の悩みや不安に向き合うカウンセラーという立場の主人公が見せる慈愛にも似た優しい共感と、その裏にひそむほの暗い闇。いわゆる正義ではないものの、譲れない己の信念のために動く彼の姿は一本筋が通っていて、抗いがたい魅力がありました!