朝が来た。
正確には、夜が終わっただけだった。
俺は一睡もできないまま、
カーテンの隙間から差し込む光をぼんやりと眺めていた。
祈莉のいない朝は、音がない。
目覚ましも、足音も、かすかな鼻歌も。
ただ、冷蔵庫の低い駆動音だけが、家に人がいる証みたいに鳴っていた。
テーブルには、昨日のままのマグカップが二つ置いてある。
一つは俺の。もう一つは
祈莉の。
片付けられなかった。
昼を過ぎても、何も喉を通らなかった。
時間だけが、意味もなく進んでいく。
夕方。
――ピリリリ。
まただ。
胸の奥が、条件反射みたいに痛んだ。
画面に表示された名前を見て、俺は小さく息を吐く。
父。
通話ボタンを押す。
「……今日はどうだ」
昨日よりも、声が掠れていた。
『……正直に言う』
父の声は、重かった。
『状況は変わっていない。いや……悪化している』
心臓が、一拍遅れて鳴った。
『朝起きてすぐに暴れた。
自分の腕を掻きむしって、「帰る」「兄ちゃんに会わせろ」って……』
俺は無意識に、拳を握り締めていた。
『食事もほとんど取らない。水を飲ませるだけで精一杯だ』
頭の中で、祈莉の姿が何度も再生される。
俺の服の裾を掴んで、泣いていたあの顔。
置いていかれる恐怖に、必死で耐えていた目。
「……そうか」
それしか言えなかった。
『医者には診せている。今は刺激を避けて、時間をかけるしかないそうだ』
父は続ける。
『……恨んでるだろうな。俺のことも、
お前のことも』
その言葉に、胸の奥が締め付けられた。
「恨まれて当然だ」
俺は、静かに言った。
「俺が、切り捨てた」
沈黙。
『……それでも』
父が、低く言う。
『見捨てたわけじゃないんだろ。』
「……頼む」
昨日と同じ言葉。
でも、今日は少しだけ、弱かった。
電話が切れたあと、家はまた静まり返った。
俺は、祈莉の部屋のドアを開けてしまった。
ベッドの上に、きちんと畳まれたパジャマ。
机の端に置かれた、読みかけの本。
カレンダーには、祈莉の字で小さく書かれた予定。
《お兄ちゃんとコンビニ》
視界が滲んだ。
「……いねぇよ」
誰もいない部屋で、呟く。
祈莉がいないだけで、家はこんなにも空っぽになるのか。
俺は、あの子にどれだけ支えられていたんだ。
守っているつもりで、依存していたのは
俺の方だったのかもしれない。
床に座り込み、背中をベッドに預ける。
「……帰ってこいよ」
届かないとわかっていても、言わずにはいられなかった。
祈莉は、今も父の家で苦しんでいる。
俺は、この家で、同じように苦しんでいる。
違うのは
俺には、自分を罰する時間があるということだけだった。
夜が、また始まる。
静かすぎるこの家で、俺は祈莉の名前を、何度も心の中で呼び続けていた。












編集部コメント
主人公は鈍感で口下手ではあるものの『コミュ障』というほどではないので、キャラの作り込みに関しては一考の余地があるものの、楽曲テーマ、オーディオドラマ前提、登場人物の数などの制約が多いコンテストにおいて、条件内できちんと可愛らしくまとまっているお話でした!<br />転校生、幼馴染、親友といった王道ポジションのキャラたちがストーリーの中でそれぞれの役割を果たし、ハッピーな読後感に仕上がっています。