朝靄の中、蝶屋敷の庭は藤の香りに包まれていた。
小鳥の声が響くたびに、屋敷の窓がひとつ、またひとつ開く。
今日も命をつなぐ日が始まる。
栗花落つむぎは、庭の水面に映る自分の姿を静かに見つめていた。
桃色の蝶の髪飾りが、春の光を受けて柔らかく輝く。
あの日──怯えて言葉も出せなかった少女は、もうどこにもいない。
背後から、懐かしい声がした。
「つむぎ、呼吸は整ってる?」
振り返ると、カナヲが立っていた。
その表情は、以前よりも穏やかで、そしてどこか誇らしげだった。
「はい。……今日も、ちゃんと笑えてます」
つむぎはそう言って小さく微笑んだ。
「そう。それがいちばん大事よ」
カナヲはうなずき、まとっていた羽織
カナエからしのぶへ、しのぶからカナヲへ
受け継がれは羽織を脱ぐ
「これをね、あなたに渡したいの」
「え……? でも、私にはまだ──」
「違うの。もう“まだ”じゃない。
あなたはもう、自分の力で誰かを癒してる。
この屋敷を、未来を、あなたに託したいの」
カナヲの声は柔らかかったが、その瞳の奥には確かな信頼が宿っていた。
つむぎは胸の奥が熱くなるのを感じ、手を伸ばした。
「……受け取ります。
この屋敷も、この想いも。
私が必ず、守り続けます」
羽織の重みは、ただの布ではなかった。
それは胡蝶カナエから、胡蝶しのぶへ。
そして栗花落カナヲから、栗花落つむぎへ──
確かに受け継がれた“優しさ”そのものだった。
カナヲは静かに微笑み、背を押した。
「これからは、あなたの背中を見せてあげて」
「……はい」
その日から、蝶屋敷の主としてつむぎの名が刻まれた。
けれど、彼女の笑顔はあの日のまま。
誰かを癒し、導き、優しさを結び続ける。
夜、灯の消えた庭に、二羽の蝶が舞った。
藤の花の下、桃色と藤色の光が重なって、ひとつになる。
──優しさは、確かに受け継がれた。
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編集部コメント
引きこもりのおじさんと真面目な女子高生という組み合わせがユニーク。コンテストテーマである「タイムカプセル」が、世代の違う二人をつなぎ、物語を進めるアイテムとして存在感を発揮しています。<br />登場人物が自分の過去と向き合い、未来に向かって成長していく過程が丁寧な構成で描かれていました。