宮近改め、海斗と付き合い始めてからの日々は、本当に楽しかった。
恋愛って、こんなに笑うものなんだ。
そう思うくらい、毎回のデートでお腹が痛くなるほど笑っていた。
待ち合わせで会えば、開口一番。
海斗が私を見て笑う。
そんな何気ない会話から始まる一日。
歩いているだけでも。
海斗が電柱を指差す。
くだらない。
本当にくだらない。
でも、そのくだらなさが心地よかった。
笑って。
また笑って。
気づけば一日が終わっている。
そんなデートばかりだった。
そして、海斗は約束を守る人だった。
そう言えば
その一週間後には、
本当に遊園地へ連れて行ってくれた。
なんなら私よりもすごく楽しそうで。
そう言って、
選んだカチューシャを私の頭につけていく。
結局、耳にピンクのリボンがついたカチューシャをつけて、海斗は耳がついたキャップを被った。
写真スポットを見つければ、
そこでたくさんツーショットを撮った。
そして、ジェットコースターにも乗って。
私が叫べば。
隣で海斗は笑いながら叫んでいる。
子どもみたいな笑顔。
パレードでは全力で手を振って。
よほど楽しいのか少し早歩きになっていた。
そして、次のデートでは水族館にも行った。
海斗が水槽の前でぼーっと立ち止まる。
青く揺れる水槽を見ながら笑い合う。
元太と付き合っていた頃。
「今度行こう。」
そう言われ続けて、一度も行けなかった場所。
その”今度”を、海斗はちゃんと叶えてくれた。
それだけで嬉しかった。
そして。
付き合ってから知った意外な一面もあった。
宮近海斗は。
ものすごくスキンシップが好きだった。
当たり前のように手を差し出す。
その言い方があまりにも自然で。
私は照れながら手を重ねた。
ぎゅっと握られる。
そのままほとんど手は離れなかった。
イルカショーが終わったあとの人混みでは。
と言って繋ぐ。
横断歩道でも。
信号待ちでも。
コンビニに入る時でも。
気づけば、いつも手を繋いでいた。
ある日、ショッピングモールのエスカレーター。
私が一段前に立っていると。
後ろから肩に頭が乗った。
慌てて振り返る。
海斗は私の肩にもたれながら、ぼーっと前を見ていた。
そう言って笑う。
周りを見渡して慌てる私を見て、
海斗は楽しそうだった。
また別の日。
エレベーターに二人きりになった。
誰も乗っていない。
扉が閉まる。
静かな空間。
海斗がこっちを見る。
一歩近づいてくる。
そのまま腰に手を回されて。
言い終わる前に。
そっと唇が重なった。
海斗の柔らかい唇の感触が伝わる。
一瞬だった。
でも。
その一瞬でも十分心臓が壊れそうだった。
離れた瞬間、私はすぐに扉の上を見る。
あと何階。
まだ着かない?
お願い。
今開かないで。
もし誰か乗ってきたら。
そんなことばかり考えてしまう。
海斗はそんな私を見て笑っていた。
エレベーターを降りたあともしばらく顔の熱は引かなかった。
そんな毎日。
海斗は、好きという言葉もちゃんと伝えてくれた。
デートの帰り道。
何気なく言う。
照れもなく笑う。
そのたびに私は照れて。
海斗はまた笑う。
そんな穏やかな日々が、ずっと続くと思っていた。
でも。
少しずつ。
本当に少しずつ。
その空気が変わり始めたのは、
付き合って半年を過ぎた頃だった。
最初は、本当に小さな違和感だった。
会えば必ず繋いでくれた手。
それは今も変わらない。
でも。
待ち合わせで会った瞬間。
以前なら、そのあと自然にキスをしてくれていた。
人が少ない駅のホームの端。
車の中。
人気のない公園。
「会えた。」
そんな気持ちを伝えるように、
軽く唇を重ねてくれていた。
それが。
気づけば、なくなっていた。
手だけ繋いで歩き始める。
最初は気のせいだと思った。
今日は人が多いからかな。
急いでるのかな。
疲れてるのかな。
そうやって理由を探していた。
でも。
一週間。
二週間。
一か月。
待っても、それは戻らなかった。
手は繋ぐ。
隣も歩く。
笑ってくれる。
優しい。
でも。
“恋人らしいスキンシップ”だけが、
少しずつ減っていた。
私は気になって、友達に相談した。
大学のカフェテリア。
ランチを食べながら聞いてみる。
友達は少し考えてから笑った。
その言葉を聞いて少し安心した。
そうか。
慣れただけか。
安心してる証拠なんだ。
そう思うことにした。
……思おうとした。
だけど。
頭では理解していても。
心は少し違った。
会うたびに。
以前ならあったものがない。
その小さな変化が、思っていた以上に寂しかった。
付き合って一年。
今度は違う変化が現れた。
連絡の頻度だった。
ある日の夕方。
そう送る。
既読はつかない。
そのまま夜になる。
朝になる。
昼になる。
ようやく返ってきたのは。
私はスマホを見つめる。
思わず小さくツッコんだ。
絶対未読のまま放置してた。
右手に携帯がくっついているような人だから。
でも。
問い詰めるほどでもない。
結局、そう返してしまう。
また別の日。
返信は翌日の昼。
さらに翌週。
静かな部屋で、一人苦笑いする。
海斗は昔からよく寝る人だった。
だから全部が嘘だとは思わない。
でも。
全部本当とも思えなかった。
デートをしていても、少しずつ変わっていく。
カフェ。
料理を待つ時間。
海斗はずっと携帯を触っていた。
漫画を読んで。
動画を見て。
SNSを見て。
指が止まらない。
返事はする。
でも。
目線は一度もスマホから上がらない。
私は少しだけムッとして聞いた。
すると海斗は画面を見たまま答える。
当たってる。
ちゃんと聞いてる。
思わず笑ってしまう。
海斗も笑う。
でも。
スマホは置かない。
私はその画面を見る。
漫画。
動画。
ゲーム。
どれも私より優先されているわけじゃない。
……そう思いたかった。
「スマホ置いて。」その一言が言えなかった。
重い彼女だと思われたくない。
面倒くさいと思われたくない。
元太の時みたいに。
だから私は笑う。
笑う。
いつも通り笑う。
でも。
笑えば笑うほど。
心の中の寂しさだけが、少しずつ積もっていった。
好きだから。
何も言えない。
言ったら壊れそうで怖い。
そんな我慢が、少しずつ当たり前になっていった。
付き合って一年八か月。
その日は仕事帰りでも、記念日でもない、
ごく普通の土曜日。
海斗から送られてきたLINEは、たった一言だった。
いつも通りの誘いだと思った。
だから私は何も疑わなかった。
そう返して、待ち合わせ場所へ向かった。
駅前の、何度も来た安い居酒屋。
学生の頃からよく利用していた店だった。
カウンター席に並んで座る。
いつもなら海斗が、「今日さ!」と
何か面白い話を始めるのに。
今日は違った。
乾杯をしても。
料理が来ても。
ほとんど喋らない。
スマホも見ていない。
ただ、ぼんやりとグラスを見つめていた。
それだけ。
空気が重い。
私は何となく嫌な予感がしていた。
でも、その予感を認めたくなくて。
必死に他の話を探していた。
その時だった。
海斗がお酒を一口飲む。
そして、小さく息を吐いた。
世界の音が消えた気がした。
何を言われたのか、一瞬理解できなかった。
終わり?
何が?
恐る恐る隣を見る。
海斗は前を向いたままだった。
その横顔を見た瞬間。
付き合った日のことを思い出した。
『俺ら、付き合っちゃう?』
あの日の海斗は。
照れていて。
嬉しそうで。
断られないか不安そうで。
でも笑っていた。
それなのに。
今、隣にいる海斗は。
どこか気だるそうで。
疲れたような顔をしていた。
まるで。
この話を早く終わらせたいとでも思っているみたいに。
意味なんて分かっていた。
それでも。
聞き返さずにはいられなかった。
海斗は私を見る。
その目は静かだった。
その一言で。
何も言えなくなった。
やっぱり。
別れ話なんだ。
海斗はテーブルを見つめたまま続ける。
胸がぎゅっと痛くなる。
海斗は少し笑った。
でもその笑顔は、悲しいくらい冷たかった。
理解できなかった。
恋人なのに。
そんなふうに思われていたなんて。
鼻の奥がつんと痛くなる。
泣きそう。
でも。
泣きたくなかった。
今ここで泣いたら。
全部負ける気がした。
私は唇を噛んで聞いた。
震える声だった。
恋愛経験なんてほとんどない。
正解なんて分からない。
それでも。
恋人と友達の違いなんて。
好きかどうかしか思いつかなかった。
海斗は少し考えるように首を傾げた。
限界だった。
ぽろり。
涙が頬を伝う。
止まらない。
ようやく出た言葉は、それだけだった。
海斗は少しだけ目を伏せる。
胸が痛い。
その言葉は、責めるようでもなく。
ただ、諦めた人の声だった。
海斗は財布を取り出す。
テーブルに一万円札を置いた。
立ち上がる。
それだけ言って。
振り返ることなく店を出て行った。
カラン。
ドアの音がやけに大きく響いた。
私は、一人になった。
向かいの席も。
隣の席も。
何も変わらないのに。
海斗だけがいなくなっていた。
涙を拭く。
何度拭いても止まらない。
海斗の言葉を思い返す。
──『本気でぶつかってこない。』
否定できなかった。
海斗が好きだった。
だから。
嫌われたくなかった。
重いと思われたくなかった。
恥ずかしくて。
「好き」もあまり自分から言えなかった。
キスだって。
手を繋ぐのだって。
いつも海斗からだった。
寂しい。
もっと構ってほしい。
スマホばっかり見ないで。
そんな言葉も。
全部飲み込んだ。
我慢すればうまくいくと思っていた。
だから。
海斗の言葉は、痛いほど当たっていた。
でも。
心のどこかで、違うとも思った。
寂しいなら。
もっと甘えてほしいなら。
もっと気持ちを返してほしいなら。
そう言ってくれればよかった。
なのに海斗は。
キスを減らして。
連絡を減らして。
スマホばかり見て。
まるで。
『気づいて。』
そう態度だけで伝えようとしていた。
私は恋愛初心者だった。
そんな不器用なSOSなんて、
読み取れるわけがなかった。
グラスに残ったお酒を見つめる。
答えは出ない。
私は残っていたお酒を一気に飲み干した。
苦い。
お酒の味なのか。
失恋の味なのか。
もう分からなかった。
今になって思う。
ただ、幼かったのだと。
好きだったことは、本当だった。
でも。
好きだけでは続かないことを知らなかった。
伝えなければ伝わらないことも。
察してほしいだけでは届かないことも。
お互い、自分のことで精一杯だった。
だからあの恋は、終わるしかなかったのだと思う。













編集部コメント
依頼人の悩みや不安に向き合うカウンセラーという立場の主人公が見せる慈愛にも似た優しい共感と、その裏にひそむほの暗い闇。いわゆる正義ではないものの、譲れない己の信念のために動く彼の姿は一本筋が通っていて、抗いがたい魅力がありました!