第31話

桜は大切な人がいるうちに一緒に見ておけ
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2026/05/12 19:55 更新
 春が来た。

 けれど、あなたの時間は、もうゆっくり終わりへ向かっていた。

 ほとんどベッドの上で過ごす毎日。
 起き上がるだけでも息が切れる。

 指先には力が入らない。
 少し話すだけで喉が痛くなる。

 医者はもう何も言わなかった。
 けれど、それが何よりよく分かる答えだった。

 ――もう長くない。

 あなた自身も、ちゃんと分かっていた。
 だからある日、神威に小さく頼んだ。

「……桜が、見たいです」

 神威はずっとベッドのそばにいた。
あなたの言葉に、思わず顔を上げる。

「桜?」
「……地球の」

 かすれた声だった。

「最後に……見てみたいです」

 少しの沈黙。
 神威はあなたを見つめ、それから静かに答えた。

「分かった」

 それだけだった。
 でも、その声はひどくやさしかった。

***

 地球の春は、やわらかかった。

 まだ少し冷たい風。
 けれど、陽射しはあたたかい。

 空は淡く晴れていて、その下で桜が一面に咲いていた。

 薄い花びらが風に乗って舞い、景色ごと淡い色に染めている。

 神威は車椅子をゆっくり押していた。

 急がない。
 本当に、大事なものを運ぶみたいな静かな速さだった。

 あなたはしばらく、ただその景色を見つめていた。

「……綺麗です」

 小さく零れた声に、神威が目を細める。

「そうだね」

 珍しく、ひどく素直な返事だった。

「……本で見たより、ずっと」

 花びらが頬に落ちる。
 あなたは空を見上げ、小さく笑った。

「神威さんと見られて、よかったです」

 神威は答えなかった。
 ただ、車椅子を押す手にほんの少しだけ力がこもる。

 やがて、人の少ない桜の下で足を止めた。

「少し休む?」
「……はい」

 神威が前に回り、ブランケットを整えようとした、その時だった。

 あなたの身体が、ふっと傾く。

「おい」

 すぐに腕が伸びた。
 力の抜けた身体を受け止める。

 軽い。
 あまりにも軽かった。

 神威はそのままあなたを抱き上げ、近くの桜の木の根元へ腰を下ろす。

 膝の上にそっと身体を預けた。

「……神威、さん」

 声はもう、風みたいにかすれていた。

「喋らなくていい」

 低い声だった。

 落ち着いているように聞こえるのに、その腕だけが少し強い。
 あなたは小さく首を振る。

「……言いたい、です」

 神威は何も言わなかった。
 ただ、その顔を見る。

 花びらが一枚、髪に落ちる。
 神威はそれを静かに払った。

 あなたは薄く目を細める。

「……あなたに、会えてよかったです」

 その一言に、神威の目が揺れた。

「何もなかった私に……いろんなものを、くれました」

 途切れそうな息で、言葉をつなぐ。

「窓のある部屋も……本も……海も……流星群も、雪も」

 小さく笑う。

「……この桜みたいに、世界が色づきました」

 神威はしばらく何も言わなかった。

 喉の奥に、重いものが詰まる。
 そんな感覚は、ひどく久しぶりだった。

 頬に触れる。

 まだあたたかい。
 けれど、その熱はもう弱い。

「俺の方こそ」

 ようやく落ちた声は、かすかに掠れていた。

「お前がいたから、壊すこと以外の時間も悪くないと思えた」

 少しだけ目を細める。

「だから、そんなふうに全部置いてくみたいな言い方すんなよ」

 優しいのに、どこか困ったみたいな声だった。
 あなたはほんの少しだけ笑う。

「……はい」

 でも、その声はもう遠い。

 風が吹く。
 花びらが舞う。

 あなたの指先が、神威の服を少しだけ掴む。

「……神威さん」
「何」
「……好きです」

 神威は、息を止めた。

 あなたは安心したみたいに目を細める。
 神威は何も言えなかった。

 言葉にした瞬間、全部終わってしまいそうで。

 ただ、額をそっと寄せる。
 それから、静かに唇を重ねた。

 短く、やわらかく。
 確かめるみたいに。

 花びらが二人の肩に降る。

 そのあと、あなたの身体からふっと力が抜けた。

 神威はすぐには動かなかった。

 全部、分かってしまったのに。
 それでも、しばらくはそのまま抱いていた。

 桜は何も知らないみたいに、ただ静かに咲いている。

 風が吹くたび、花びらが舞い落ちる。
 神威はあなたの髪を一度だけ撫でた。

「……ほんと、最後まで勝手だな」

 叱るみたいな声だった。
 けれど、ひどくやさしかった。

 神威は静かに抱き上げる。
 軽い身体を、今度は落とさないように。

「……帰るよ」

 返事はない。

 それでも、聞こえている気がした。
 桜の下を、神威はゆっくり歩いていく。

 花びらが舞う。

 春の光の中、その背中だけが静かに遠ざかっていった。

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