春が来た。
けれど、あなたの時間は、もうゆっくり終わりへ向かっていた。
ほとんどベッドの上で過ごす毎日。
起き上がるだけでも息が切れる。
指先には力が入らない。
少し話すだけで喉が痛くなる。
医者はもう何も言わなかった。
けれど、それが何よりよく分かる答えだった。
――もう長くない。
あなた自身も、ちゃんと分かっていた。
だからある日、神威に小さく頼んだ。
「……桜が、見たいです」
神威はずっとベッドのそばにいた。
あなたの言葉に、思わず顔を上げる。
「桜?」
「……地球の」
かすれた声だった。
「最後に……見てみたいです」
少しの沈黙。
神威はあなたを見つめ、それから静かに答えた。
「分かった」
それだけだった。
でも、その声はひどくやさしかった。
***
地球の春は、やわらかかった。
まだ少し冷たい風。
けれど、陽射しはあたたかい。
空は淡く晴れていて、その下で桜が一面に咲いていた。
薄い花びらが風に乗って舞い、景色ごと淡い色に染めている。
神威は車椅子をゆっくり押していた。
急がない。
本当に、大事なものを運ぶみたいな静かな速さだった。
あなたはしばらく、ただその景色を見つめていた。
「……綺麗です」
小さく零れた声に、神威が目を細める。
「そうだね」
珍しく、ひどく素直な返事だった。
「……本で見たより、ずっと」
花びらが頬に落ちる。
あなたは空を見上げ、小さく笑った。
「神威さんと見られて、よかったです」
神威は答えなかった。
ただ、車椅子を押す手にほんの少しだけ力がこもる。
やがて、人の少ない桜の下で足を止めた。
「少し休む?」
「……はい」
神威が前に回り、ブランケットを整えようとした、その時だった。
あなたの身体が、ふっと傾く。
「おい」
すぐに腕が伸びた。
力の抜けた身体を受け止める。
軽い。
あまりにも軽かった。
神威はそのままあなたを抱き上げ、近くの桜の木の根元へ腰を下ろす。
膝の上にそっと身体を預けた。
「……神威、さん」
声はもう、風みたいにかすれていた。
「喋らなくていい」
低い声だった。
落ち着いているように聞こえるのに、その腕だけが少し強い。
あなたは小さく首を振る。
「……言いたい、です」
神威は何も言わなかった。
ただ、その顔を見る。
花びらが一枚、髪に落ちる。
神威はそれを静かに払った。
あなたは薄く目を細める。
「……あなたに、会えてよかったです」
その一言に、神威の目が揺れた。
「何もなかった私に……いろんなものを、くれました」
途切れそうな息で、言葉をつなぐ。
「窓のある部屋も……本も……海も……流星群も、雪も」
小さく笑う。
「……この桜みたいに、世界が色づきました」
神威はしばらく何も言わなかった。
喉の奥に、重いものが詰まる。
そんな感覚は、ひどく久しぶりだった。
頬に触れる。
まだあたたかい。
けれど、その熱はもう弱い。
「俺の方こそ」
ようやく落ちた声は、かすかに掠れていた。
「お前がいたから、壊すこと以外の時間も悪くないと思えた」
少しだけ目を細める。
「だから、そんなふうに全部置いてくみたいな言い方すんなよ」
優しいのに、どこか困ったみたいな声だった。
あなたはほんの少しだけ笑う。
「……はい」
でも、その声はもう遠い。
風が吹く。
花びらが舞う。
あなたの指先が、神威の服を少しだけ掴む。
「……神威さん」
「何」
「……好きです」
神威は、息を止めた。
あなたは安心したみたいに目を細める。
神威は何も言えなかった。
言葉にした瞬間、全部終わってしまいそうで。
ただ、額をそっと寄せる。
それから、静かに唇を重ねた。
短く、やわらかく。
確かめるみたいに。
花びらが二人の肩に降る。
そのあと、あなたの身体からふっと力が抜けた。
神威はすぐには動かなかった。
全部、分かってしまったのに。
それでも、しばらくはそのまま抱いていた。
桜は何も知らないみたいに、ただ静かに咲いている。
風が吹くたび、花びらが舞い落ちる。
神威はあなたの髪を一度だけ撫でた。
「……ほんと、最後まで勝手だな」
叱るみたいな声だった。
けれど、ひどくやさしかった。
神威は静かに抱き上げる。
軽い身体を、今度は落とさないように。
「……帰るよ」
返事はない。
それでも、聞こえている気がした。
桜の下を、神威はゆっくり歩いていく。
花びらが舞う。
春の光の中、その背中だけが静かに遠ざかっていった。











編集部コメント
主人公は鈍感で口下手ではあるものの『コミュ障』というほどではないので、キャラの作り込みに関しては一考の余地があるものの、楽曲テーマ、オーディオドラマ前提、登場人物の数などの制約が多いコンテストにおいて、条件内できちんと可愛らしくまとまっているお話でした!<br />転校生、幼馴染、親友といった王道ポジションのキャラたちがストーリーの中でそれぞれの役割を果たし、ハッピーな読後感に仕上がっています。