私の目の前に広がっていたのは、ごくごく普通の日常の風景。
ただし、子どもの肌が燃えるように赤く、額からは角が生えている。
隣を歩く母親の口から覗く牙は、異常なほどに凶悪だ。
道路の反対側の薄暗い小路に目を遣ると、暗闇の中で無数の目がこちらを見ている。
怪しい光を放つその目は、何度も瞬きを繰り返し、まるで私に襲いかかるタイミングを見計らっているよう。
慌てて目を逸らし、通りの向こうを見ると、観光客を乗せた人力車が走っている。
けれども、それを引く人夫の腕は異常なほどに膨れ上がっており、顔のいたるところに目が存在していた。
私はへなへなとその場に座り込むと、動けなくなってしまった。
まるで、異世界にでも迷い込んでしまったようだ。
自分の身に一体なにが起こっているのか、まったく理解できない。
もしかしたら、私は足を踏み入れてはいけない場所にきてしまったのだろうか。
鎌倉というこの場所は、実は魔境だった──?
すると、突然なにかに襟首を引っ張られて、ふわりと体が浮き上がった。
恐る恐る首を巡らせると──それは、あの巨大な黒猫だった。
黒猫はそう言うと、まるで子猫にするように、私を口で咥えたまま、店内に戻るために歩き始めた。
私は、ちっとも力が入らない体に絶望しながら、悲鳴を上げる気力もなく、まるで神様に捧げられる生贄のような気分で、無理やり店内に戻されたのだった。
目の前には、凶悪な牙が並んだ大きな口──ではなくて、ホカホカ湯気を立てている、薫り高い珈琲。
香ばしい香りが鼻を擽り、困惑して周囲を見回す。
巨大な猫は、また着流しの男性に変化して、私の隣に座って楽しそうに笑っている。
その他のあやかしたちも、興味深そうに私を見てはいるものの、襲ってくる様子はない。
すると、身を固くしている私に、猫が変化した男性は優しく声をかけてきた。
慌てて遠慮すると、「そう」とその人は頬杖を突いて微笑んだ。
縦長の瞳孔がすうと細まって、目の前の存在が、酷似してはいるが人間とは違うものなのだと思い知る。
けれど、彼の纏う、しっとりと雨に濡れたような怪しい美しさに見惚れそうになる自分もいて、内心で戸惑うばかりだった。
そんな風に思いながら、珈琲に口をつける。
すると、その味に思わず目を見開いた。
編集部コメント
依頼人の悩みや不安に向き合うカウンセラーという立場の主人公が見せる慈愛にも似た優しい共感と、その裏にひそむほの暗い闇。いわゆる正義ではないものの、譲れない己の信念のために動く彼の姿は一本筋が通っていて、抗いがたい魅力がありました!