オンボロ寮のキッチンに、
小気味よい音が響く。
トントン、とリズム良くまな板を叩く音。
エプロン姿のデュースが、
真剣な眼差しでボウルの中の
卵をかき混ぜていた。
「よし、監督生。
今日は『オムレツ』のリベンジだ。
前にトレイ先輩が教えてくれたコツ、
ちゃんと復習してきたからな」
デュースは少し得意げに、
けれど緊張した面持ちで
フライパンを火にかける。
私はカウンター越しに
その背中を眺めながら、
「楽しみにしてるね」
と微笑んだ。
(……リベンジ。……オムレツ?)
けれど、私の心の中には、
彼と一緒に料理をした
記憶の欠片も残っていなかった。
彼が卵を割るのが苦手で、
以前二人でキッチンを
めちゃくちゃにしたことも。
殻が入らないように、
私が後ろから手助けした時の、
彼の耳の赤さも。
「……できたぞ! 見てくれ、
今回は形も崩れていない!」
差し出されたお皿には、
黄金色に輝く綺麗なオムレツ。
一口食べると、
バターの香りと
卵の優しい甘さが口いっぱいに広がった。
「美味しいよ、デュース。
……料理、上手になったんだね」
「当たり前だ、
お前と『次は完璧なのを食べさせる』
って約束したんだから。
……あ、でも、味付けは
前と同じで良かったか?」
デュースの問いかけに、
私は一瞬、フォークを止めた。
「前」の味付け。
塩だったか、ケチャップだったか、
それとも隠し味に何か入れたのか。
「……うん。前と同じで、すごく美味しい」
私は曖昧に頷いた。
監督生がどんどん記憶を無くしていく
…それは元の世界に帰る準備のように見えました。
デュースが
「優等生」であろうと努力し、
私との約束を果たすために
費やした時間は、
今の私にとっては
「初めまして」に
近い新鮮な驚きでしかない。
彼が積み上げてきた
思い出の煉瓦が、
私の足元から音もなく崩れ落ちている。
「……監督生。
お前、さっきから一口食べるごとに、
驚いたような顔をしてるな」
デュースが椅子を引き、
私の正面に座った。
その水色の瞳は、
嘘を許さないほどに澄んでいる。
「……そんなことないよ。
本当に美味しいから」
「……そうか。ならいいんだが。
……お前が教えてくれたあの隠し味、
やっぱり正解だったよな」
「トレイ先輩を褒めてくれた」
デュースはそう言って、
少しだけ寂しそうに笑った。
隠し味なんて、
本当は入れていない。
彼は私を試したのだ。
私の中に生まれた
「小さな渦」が、
真面目な彼の心をかき乱していく。
私が彼を忘れるたび、
彼の中の「監督生」という存在が、
どこか遠い世界の住人のように、
輪郭を失っていくのを感じていた。












編集部コメント
依頼人の悩みや不安に向き合うカウンセラーという立場の主人公が見せる慈愛にも似た優しい共感と、その裏にひそむほの暗い闇。いわゆる正義ではないものの、譲れない己の信念のために動く彼の姿は一本筋が通っていて、抗いがたい魅力がありました!