元貴は手を合わせる。
母が優しく微笑んだ。
食器を流しへ運びながら、元貴は立ち上がる。
母が手を振る。
元貴はそのまま廊下へ向かった。
その後ろを、小さな白い猫がてちてちと歩いていく。
元貴は足を止めた。
後ろを見る。
当然のような顔でルシェルがいた。
ルシェルの耳がぴくりと動く。
元貴は半目になる。
返事だけはやたら素直だった。
元貴は少し疑わしそうな目を向ける。
ルシェルはぷいっと顔を逸らした。
その様子に、元貴は小さく息を吐く。
気づいていなかった。
家に帰ってから初めて。
ほんの少しだけ。
本当にほんの少しだけ。
肩の力が抜けていたことに。
そしてルシェルも気づいていた。
だから何も言わない。
ただ、元貴が浴室へ入っていく背中を静かに見送った。
その声は、
母の声よりもずっと小さかった。
浴室には湯気が満ちていた。
静かな水音だけが、小さく響いている。
元貴は浴槽に身を沈めた。
肩まで湯に浸かる。
温かいはずなのに、胸の奥は少しも軽くならなかった。
小さく息を吐く。
しばらく天井を見つめたあと。
ぽつりと呟いた。
脳裏に白い猫の姿が浮かぶ。
「お守りするよう、雇われた精です」
自嘲気味に笑う。
湯面に映る自分の顔を見る。
揺れていて、はっきり見えない。
言葉は自然と零れた。
誰に聞かせるわけでもなく。
教室でのことが頭をよぎる。
誰かの笑い声。
視線。
聞こえないふりをした言葉。
元貴は目を閉じる。
そこで言葉が止まる。
湯船の中で握った拳に力が入る。
本当は分かっていた。
全部が自分のせいではないことくらい。
それでも。
そう思わないと苦しかった。
誰かが悪いのだと認めてしまったら。
傷ついたことを認めてしまったら。
自分がどれだけ苦しかったのかまで、
認めなければいけなくなるから。
元貴は静かに顔を伏せた。
湯気が視界を曇らせる。
その頃。
浴室の外では。
ルシェルがドアの前にちょこんと座っていた。
中の声は聞こえない。
けれど。
小さな猫は、ただ静かに扉を見つめていた。
まるで、その向こうにいる少年の心を案じるように。
※この物語はフィクションです。













編集部コメント
依頼人の悩みや不安に向き合うカウンセラーという立場の主人公が見せる慈愛にも似た優しい共感と、その裏にひそむほの暗い闇。いわゆる正義ではないものの、譲れない己の信念のために動く彼の姿は一本筋が通っていて、抗いがたい魅力がありました!