朝は、目が覚める前から始まっていた。眠っているはずなのに、胸の奥が落ち着かない。どき、どき。心臓の音が、先に起きてる。連はゆっくり目を開ける。天井はいつもと同じなのに、からだだけが重い。起き上がるほどじゃない。でも、もう一回寝るほどでもない。
車椅子に移るだけで、
少し息が上がる。
動いてないのに、疲れる。
こういう日は、だいたい、
あとで気持ち悪くなる。
廊下の光がまぶしい。
そのまま進もうとして、
連は一度、止まった。
胸の奥が、むずっとする。
喉が、きゅっと狭くなる。
これは、知ってる感じだ。
声は小さかったけど、
ちゃんと届いた。
前にかがむと、にぃにが来て、
容器が目の前にあって、
背中に、いつもの手。
あったかくて、
ゆっくりで、
急かさない。
肩が小さく揺れて、
気持ち悪さが、少し外に出る。
いっぱいじゃない。
でも、からだは正直で、
「今日は無理だよ」って言ってる。
水を一口だけ。
口に含んで、
すぐ、だめだってわかる。
首を振る。
言ったら、
にぃには首を振った。
それで、少しだけ安心する。
食べられない朝だ。
連は、もう知ってる。
空腹じゃないのに、
力が出ない。
手が、前より軽い。
ズボンが、少しゆるい。
体重計は見てない。
でも、からだが教えてくる。
栄養が足りないと、
心臓はすぐ、文句を言う。
ちょっと動くだけで、
どきどきが早くなる。
わかってる。
無理したら、もっとつらくなる。
でも、
それでも、ちょっと不安になる。
声にはしない。
代わりに、
にぃにを呼ぶ。
甘えたい、って言葉は使わない。
でも、手を握ってほしい。
背中をさすってほしい。
「今日はここまででいい」って、言ってほしい。
弱いからじゃない。
朝から、ちゃんと頑張ってるから。
車椅子のブレーキが、静かに止まる。
朝は、少しだけ、立ち止まったまま。
それでも連は思う。
ちゃんと起きた。
ちゃんと呼べた。
ちゃんと止まれた。
それだけで今日は、
もう十分、頑張った朝だ。
体重は、数字を見なくてもわかる。
車椅子に座ったとき、
太ももが前より細い。
ひざ掛けが、少しずれる。
声には出さない。
出したら、本当になってしまいそうだから。
服が軽い。
からだも、軽い。
でも、いい軽さじゃない。
前は、朝にここまで疲れなかった。
前は、もう少しだけ、力が残ってた。
食べられない日が続くと、
からだは、ちゃんと覚えてる。
栄養が来ないってことも、
守らなきゃいけない心臓のことも。
ちょっと動くだけで、
どきどきが速くなる。
息を整える時間が、前より長い。
自分に言ってみる。
でも、あんまり効かない。
体重が落ちると、
発作も起きやすくなる。
それも、連は知ってる。
だから、怖い。
すごくじゃないけど、
じわっと、ずっと。
呼ぶと、
音がすぐ近くにいるのがわかる。
手を握られるだけで、
体重のことも、
食べられない不安も、
少しだけ、遠くなる。
減っていくのは、体重だけ。
連の頑張りまで、減ったわけじゃない。
今日は、止まるって決めた。
それも、ちゃんとした選択だ。
連は、目を閉じて、
にぃにの手のあたたかさを確かめる。
体重は落ちてる。
でも、
一人じゃないってことは、
ちゃんと、残ってる。
------------------音視点-----------------
正直、数字を見なくてもわかっていた。
車椅子に座る姿が、少し小さい。
服の余り方が、前と違う。
手首も、足も、細くなっている。
音は、何も言わない。言えば連が気にするのは、わかっているから。朝、食べられなかった。水も、ほんの一口で止めた。それだけで、今日はもう限界だと伝わってくる。連は頑張りすぎる。医療的ケア児として生きてきた分、「我慢する」ことを覚えすぎている。でも、我慢でどうにかなる体じゃない。心臓のことも、発作のリスクも、栄養が足りないと一気に崩れることも、音は全部知っている。
独り言みたいに言って、そっと連の手を握る。軽い。前より、確実に。胸の奥が、少しだけ締めつけられる。でも、表には出さない。不安にさせたくないから。連には、安心してほしいから。
そう言うと、連の肩が少し下がる。それだけで、「ああ、よかった」と思う。体重は落ちている。それは事実だ。でも、連がちゃんと「止まれた」こと、「呼べた」こと、それは、ちゃんと守れた。音は、連の目線に合わせて、静かに言う。
今日の朝は、それを伝えるための朝だった。
連の呼吸が、ゆっくり整ったのを確認してから、音はそっと立ち上がった。ブランケットを直して、
車椅子の位置を少しだけ調整して、起こさないように、音を立てずに部屋を出る。ドアを閉めた瞬間、肩から力が抜けた。
小さく息を吐いて、自分の部屋に戻る。ベッドに腰を下ろした途端、胸の奥に溜めていたものが、じわっと広がった。軽かった。手も、体も。あれは、気のせいじゃない。体重、また落ちてる。食べられない日が続いてる。吐き気も増えてる。心臓への負担だって、数字にしなくても、もうわかる。
音は、低く呟く。連の前では、絶対に言わない言葉。怖い。正直、それが一番近い。発作のことも、急に崩れる可能性も、頭では全部わかってる。だからこそ、「大丈夫」って言うしかなかった。連は、自分を責める。迷惑だって思う。それだけは、絶対にさせたくない。音は両手で顔を覆う。指の隙間から、天井を見る。
でも、無理はさせられない。無理をしたら、取り返しがつかないことも、知ってる。正解がない。あるのは、選び続けることだけ。音は深く息を吸って、ゆっくり吐いた。連が起きる頃には、また笑う。また、落ち着いた声で言う。
それが、音の役目だ。怖さは、ここに置いていく。ドアの向こうで眠る小さな背中を思い浮かべながら、音は静かに立ち上がった。――守るために、揺れないふりをする。それもまた、にぃにの覚悟だった。
玄関の方が少し騒がしくなったのが、わかった。沖の声と、少し高い琉翔の声。――帰ってきたな、連の様子を見ながら、音は一度だけ、そっと息を吐いた。この時間帯は、どうしても神経が張る。連はベッドに横になっている。目は閉じているけど、寝息はまだ浅い。体重計の数字が、頭の奥に引っかかったまま離れない。また、少し減っていた。食べられない日が続くと、数字は正直だ。正直すぎて、残酷なくらい。音は連の手を握る。細くなった指。前よりも、軽い。
眠っているとわかっていても、つい声に出してしまう。廊下の向こうから、ドライヤーの音が聞こえてきた。ぶおお、という低い音。それに重なる、琉翔の泣き声。――あ、今日はダメな日か。音は立ち上がらない。沖がいる。塁もいる。だから自分は、ここを離れない。連の呼吸の間隔、胸の上下、ほんの小さな変化。それだけを見る。ドライヤーの音が止まって、しばらくして、泣き声も小さくなった。うまくいったんだろうな、と思うだけで、胸の奥が少し緩む。音は連の額に手を当てる。熱はない。でも、体力は削れている。
寝言みたいに、小さな声。音は思わず、そのまま手を離せなくなる。甘えたいよな。本当は、もっと。でも連は、我慢することを覚えすぎている。音は笑ってあげる代わりに、そっと言った。
連の眉が、ほんの少しだけ緩む。その瞬間、音は決める。――今日は、無理させない。――食べられなくても、責めない。――数字より、今を優先する。沖が琉翔を抱えて、リビングに入ってくる気配がした。それでも音は、まだ立ち上がらない。今は、連のにぃにでいる時間だから。静かな部屋で、音は連の手を握り続けていた。
沖視点
ドライヤーのスイッチを入れる前から、今日はダメかもな、って分かってた。琉翔の手が、もう服をぎゅって掴んでる。指先に力が入ってる時は、だいたい音が刺さる日だ。
そう言いながら、一番小さい風量に合わせる。……でも。ぶおっ、ほんの一瞬、音が立っただけで。琉翔の肩が跳ねた。
泣く、と思った瞬間、案の定。
胸に飛び込んできた小さな体。濡れた髪が服に当たるのも構わず、沖はすぐドライヤーを離す。ああ、今日はこれだ。無理にやったら、余計に怖くなる。分かってる。琉翔の背中を、一定のリズムでぽんぽん叩く。
声は低く、ゆっくり。塁が横で、さっとおもちゃを差し出すのが見えた。助かる。沖はもう一度、ドライヤーを少し離して持つ。風は当てない。音だけ、遠くで鳴らす。
その一言が、胸にちくっと来る。でも、止めない。止めたら、明日も明後日も、もっと怖くなる。
止めて、抱いて、また数えて。それを、何回も。途中で泣いて、途中で怒って、途中でしがみついて。それでも最後まで終わったとき、スイッチを切った瞬間の、あの力の抜け方。全身で「終わった」を表現する。
その瞬間だけ、全部報われる。沖はタオルで頭を包んで、ぎゅっと抱く。
琉翔は、涙の跡が残ったまま、でも胸に顔をうずめて、小さく言う。
それだけでいい。泣いてもいい。怖がってもいい。逃げてもいい。それでも、最後まで一緒にいる。それが、琉翔のお世話係の仕事だから。沖は、少しだけ深く息を吐いた。
ドライヤーを乗り切ったあとの、ご褒美タイム。床に並んで、大きめのチョコアイスを半分こ。琉翔は嬉しそうに食べていたけど、途中でスプーンを止めた。アイスを見て、それから廊下の奥――連の部屋の方をちらっと見る。でも、声はかけない。琉翔は沖の服の袖を、ちょんちょんと引く。
小さな声で、確認するみたいに聞く。
沖はすぐ意味を察して、静かに答える。
琉翔は「そっか……」って顔で、アイスを見下ろす。少し考えてから、また沖を見る。
ためらいながら、でもはっきり。
あくまで、沖に相談する言い方。沖は一瞬きょとんとして、それからゆっくり笑う。
琉翔の目がぱっと明るくなる。
琉翔はこくんとうなずいて、指を口に当てる。
ふたりで小さく約束して、またアイスに戻る。連はそこにいない。声もかけてない。それでも、ちゃんと想ってて、ちゃんと準備しようとしてる。琉翔のその気持ちを、沖だけが知っている。そしてその小さな相談が、静かなサプライズの始まりになる。
アイスは、いつの間にか食べ終わっていた。空っぽになったカップを見て、琉翔は満足そうに息を吐く。
沖はカップを受け取りながら、さっきの言葉を思い返していた。――れんにぃの、たべれるアイス。琉翔はもう、その話題を続けない。でも、忘れてもいない。沖の袖を掴んで、小さな声で言う。
その一言で、全部つながる。沖は何も言わずに、琉翔の頭を軽くなでる。
琉翔はにやっと笑って、
人差し指を口に当てる。
冷凍庫の扉が閉まる音がして、部屋はまた、いつもの夜に戻る。でも、もう決まってしまった。次は、連の誕生日。食べられるもの。無理のないもの。でも、ちゃんと特別なもの。小さな相談から始まった計画は、静かに、でも確実に動き出していた。――次は、連くんの誕生日サプライズ。それを一番楽しみにしているのは、たぶん、準備する側の方だった。
次回、3章︰連くんの誕生日サプライズ、(準備編)
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編集部コメント
引きこもりのおじさんと真面目な女子高生という組み合わせがユニーク。コンテストテーマである「タイムカプセル」が、世代の違う二人をつなぎ、物語を進めるアイテムとして存在感を発揮しています。<br />登場人物が自分の過去と向き合い、未来に向かって成長していく過程が丁寧な構成で描かれていました。