琉翔が三歳になった頃から、家の空気が少しずつ変わった。
理由は単純で、でも厄介だった。
何を言っても——
「いや」
それだけ。
抱っこもいや。
着替えもいや。
移動もいや。
他の兄が声をかけるたび、琉翔は首を横に振って、その場に座り込む。
泣き叫ぶわけでもない。
ただ、動かない。
それが一番、困った。
言葉は届かない。むしろ、増えるほど琉翔の体は固くなる。沖は少し離れたところで、その様子を見ていた。どう声をかけたらいいのか、正直分からなかった。その時だった。
音の声は小さかった。
でも、迷いはなかった。
沖は思わず自分を指さす。
音は頷くだけだった。
琉翔を見て、
それから沖を見る。
沖は少し迷ってから、琉翔の名前を呼んだ。
それだけ。
強くもなく、命令でもなく。
琉翔が、顔を上げた。
次の瞬間、
まだおぼつかない足で、てくてくと歩き出す。
転びそうになりながらも、まっすぐ沖の方へ。
そして——
沖の膝の前で止まり、そのまま、よじ登るように座った。
当然みたいに。
沖は固まった。
腕の中に、小さな体温。
周囲が、しんと静まる。
少し離れた場所で見ていた朔は、何も言わなかった。
ただ、視線だけを向けて、状況を受け止める。
長男として、誰がどこを担うかを、もう理解していた。音は小さく息を吐いた。
その声には、安堵が混じっていた。同時に、どこか覚悟も。沖は琉翔を見下ろして、困ったように笑う。
琉翔は答えない。
ただ、沖の服を掴んだまま、安心した顔をしている。
その時はまだ、分からなかった。
これが始まりだなんて。
ただ、
この日を境に、琉翔は——
沖のところに来るようになった。
——こうして、琉翔の初めての反抗期は始まった。同時に、この日を境に、家の中の認識も静かに変わった。琉翔がぐずると、誰かが自然と沖を見る。
特別な宣言があったわけじゃない。
話し合いをしたわけでもない。
ただ、
琉翔が沖のところへ行く。
沖が受け止める。
それを、
音も、朔も、他の兄たちも、
止めなかった。
沖自身も、まだ自覚はなかった。
腕の中で、琉翔が落ち着いた頃、
沖は小さく声をかけた。
その時だった。
琉翔が、沖の服を掴んだまま、
顔を上げる。
小さな口が、少しだけ動いて——
かすれた声で、はっきりと。
一瞬、時間が止まった。
沖は、息の仕方を忘れたみたいに固まる。
周りも、誰も動かない。
音が、はっとしたように目を見開き、
朔は、ゆっくりと視線を逸らした。
——聞き間違いじゃない。
琉翔は、
初めて、言葉で呼んだ。
沖は、ぎこちなく琉翔を抱き直す。
琉翔は答えない。でも、もう一度、同じ場所に顔を埋めて、安心したみたいに動かなくなった。その答えで、十分だった。この日から、琉翔の「担当」は沖になった。逃げられない役目。でも、押しつけられた感覚は、不思議となかった。——それは、琉翔の反抗期が始まった日であり、沖が“担当”になった日であり、そして、「にぃに」と、初めて呼ばれた日だった。
数日後の朝。別の兄が、琉翔の横にしゃがみ込む。園児服を手に取りながら、優しく声をかける。
琉翔は床に座ったまま、顔をそむける。
小さな手で服を押し返して、首を振る。
声をかけても、動かない。まだ眠そうな目の奥に、意思の強さがちらりと見える。別の兄は少し困った顔でため息をつく。
その言葉に、琉翔の目がぴくっと動いた。そして、おぼつかない足でてくてく、と歩き始める。布団の上でまだ寝ている沖の元へ。膝を軽くトントンと叩いて、小さな声で呼ぶ。
沖は、眠そうに目を擦りながら顔を上げる。
琉翔の意思は明確だった。
自分で起こさせようとしている——。
沖は一瞬、言葉がよく聞き取れず、首をかしげる。琉翔は手を沖に伸ばしながら、目を真剣に見つめる。
沖が微笑んで頷くと、琉翔は膝の上にちょこんと座ったまま体を傾ける。まだ上手に「着替え」とは言えないけれど、意思は確か。袖を通すのも、ズボンを履くのも、途中で止まっても、沖が「にぃに」と声をかければ、また動く。泣いたり嫌がったりはしない。すべてが、沖の存在で支えられていた。着替えが終わると、琉翔は膝の上で小さく安心したように頷く。
沖が笑いながら答える。
その日から、琉翔は沖を起こす係になった。まだ言葉は拙いけれど、意思と行動ははっきりしていた。家の中の誰もが、これを新しい日常の一部として静かに受け入れる。
✂︎------------------キリトリ線-----------------✂︎
次回、第5章︰小さな相棒
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編集部コメント
主人公は鈍感で口下手ではあるものの『コミュ障』というほどではないので、キャラの作り込みに関しては一考の余地があるものの、楽曲テーマ、オーディオドラマ前提、登場人物の数などの制約が多いコンテストにおいて、条件内できちんと可愛らしくまとまっているお話でした!<br />転校生、幼馴染、親友といった王道ポジションのキャラたちがストーリーの中でそれぞれの役割を果たし、ハッピーな読後感に仕上がっています。